命を与える息と極悪人としての私

チア・シード

詩編104:1-35   


海の向こうは異邦の地であり、他の民族がいます。イスラエルは葦の海の出来事のように、海と無縁であるとは言えませんが、基本的に海を文化としてはいません。ところがこの詩は、王の即位と共に海が中心にきます。これはイスラエルの信仰にそぐわないものです。しかし神の深く広い知恵は、なるほど海のイメージにも合うと言えるでしょう。
 
でも、潮の轟きの声が主を感じさせるというように言ったところで、イスラエル人の魂に、何を響かせることができたでしょう。゜私たちは、聞く人にとりなじみのある、あるいは聞きやすい言葉や実例を用いて、神の言葉を語ることの大切さを、普通よく分かっているはずです。でも、なかなかそれが分からないであるというのが実情です。
 
主が即位して王となる。支配者となり君臨する。これは私の信仰のプロセスに重なるものであるように思いました。私の内で主が王となったあの時のことです。主のことをそれまで知らなかった訳ではありません。あるいは信じていたと自分では思っていた。そのつもりだったのだが、ある時、主が私の心の王座に来られた。
 
私は主の僕だと自覚し、すべての世界が、見える景色が変わりました。世界が変わったのです。私にとり主が王となられたこと、私がひれ伏したということ、ここが大いなる変化でした。神の国が私たちにとって訪れました。私が神の国の住人として認められました。このとき世界は揺るがなくなります。私はどこにいるのか、今こそ分かるからです。
 
こうしてはっきりしたと思ったところへ、潮の帰りが運ばれてきます。私はどこにいるのか、よく分からなかったそれまででしたが、このときはっきりと定まるのを覚えました。そして、潮です。心が渦を巻く。波が押し寄せる。その音が激しく鳴りわたります。主の声が聞こえるというそのとき、その言葉が聞き取れるというだけの意味でもないでしょう。
 
その音が、私を揺るがすように働くことがあるからです。世の如何なる大水よりも、大波よりも、それは強大であり、威力があります。私は主の前にひれ伏すだけ。主の定めが落ち着くべき事態はそれです。聖なることが相応しいというのは、世と分かたれた者として、主の国の住人となるを意味しているものでしょう。
 
清く正しくなるのではありません。そうなりたいと願い、禁欲的な生活へと一新したとしても、それが清く正しくなることと同一ではないのです。世の支配下にしか、生きている私たちは住まうことができません。世の制約は受けていることでしょう。しかし、法的には神の国にの支配下にあることを心得ておきたいと願います。


Takapan
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