入門

チア・シード

詩編100:1-5   


「○○入門」という本や講座が多い。素人向けの優しい紹介であるかのようにも見えますが、考えてみればこれは大変なことです。門に入るというのは簡単なことではありません。その世界の領域に足を踏み入れてしまうのです。縁切寺に逃げ込んだ妻は、追う夫をシャットアウトでき、身を守ることができたといいます。門は部外者を締め出すのです。
 
門はその世界の入口ですから、その世界に入ってしまうというのは、並大抵なことではなく、生半可な気持ちで門を潜ることはできないはずでした。感謝して主の門に進み、賛美しつつ主の庭に入れ。正に入門です。主の門を潜ってしまった。これはもう主の守る安全圏に入ったということにほかなりません。でも門はまず開いてもらわなければ入れません。
 
安直なつくりの羊の門ですら、それを越えて入る者は盗賊とした喩えをイエスは語りました。城壁都市の門は頑丈であったはずで、それを破ると街は潰されるということを意味しました。怪力サムソンがペリシテ人の町の門を引き抜いて持ち帰ったという逸話は、ペリシテ人たちに決定的な脅威を与えたに違いありません。
 
門は、その世界に入るかどうかという、重要な象徴でした。かつて道場破りというのが日本にあり、それを果たすと道場の看板を持ち去るというような画を、昔のドラマや映画でよく見ました。門の看板が道場そのものだったのです。それと同様に、門はその世界の入口であると同時に、その世界全体の象徴としての役割をも担っていたと思われます。
 
詩人は、全地に主を喜べと呼びかけ、すべての人々に、人間は主のものであり、主の民の羊ではないかと思い知らせようとします。この門は羊の門でもあったということになります。いま入門せよ。入ってしまえばもう安心です。そしてもう困難と絶望と自己嫌悪しかなかったあの元の世界に戻ることはできません。いえ、戻る必要がないのです。
 
そこから先は主の牧場です。神との豊かな交わりの世界です。もう二度とかつての危険なところへ戻るものではありません。とこしえに主の慈しみに包まれていることができます。私たちは主の声を聞いて、神の国に入りました。文字通り、その門から入る、入門を果たしました。神の真理をここからは称えていればよいのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります