知恵が一人ひとりに問いかける

チア・シード

箴言8:1-11   


ここでも知恵は、英知または知識と表現を変えながら登場し、すっかり擬人化しています。四つ辻に巷に立っては人々に呼びかけます。つまり人々は、これを知らないはずがない、聞いていないはずがない、ということです。神の教えを、もちろんイスラエルの土地では全く知らないということはありえないはずではあるのですが。
 
箴言はそうした前提で記されています。それでよいとは思います。でも、私たちのいまここにおいては、どう通用するというのでしょうか。自然神学という視点があります。啓示神学に対し、イエス・キリストを知らなくても、大自然を見ればそこに見えざる神という存在を感じるという心を尊重するものです。知恵の呼びかけも肯定されるでしょう。
 
実に、人間の宗教心には、普遍的なものがあるのです。神観念には一定の差異があるのは当然のことですが、共通する何かもあることは間違いないでしょう。神の教えは、この知恵のように、人々に呼びかけるべきものです。問題は、私たちがそれを受け取るのか、受け止めるのか、あるいはそれを受け容れるのかどうか、ということです。
 
知恵は、愚かな人々にも確実に呼びかけています。その愚かさは公平を退け、不正をなし、曲り歪んだ心の持ち主であるように見受けられます。では、それは誰なのでしょうか。預言者はこのような形で、世に力を及ぼす為政者への批判を伝えます。なんと立派なリーダーたる人物こそが、こうした愚か者の代表だったのです。
 
なるほど政治が悪いのか、と早合点する人がいるかもしれません。民主主義が無条件に正しいと偶像視される時代をいま迎え、私たちは、まるで主権者たる自分もまた、無条件で正義であるような気持ちになっていないかと懸念します。民として自分は正しい、誤っているのは政治だ、と思いこみ、ブレーキが利かなくなる人が世に沢山います。
 
でも、民主主義というのは民こそが為政者である、と見なすこともできるでしょう。ならば主権者たる私たち自身が、公義と公正について問われているということになります。間違いなく私たちは呼びかけられています。財宝にも勝るこの知恵が、おまえはそれでよいのかどか、私たち一人ひとりにいま呼びかけているのです。


Takapan
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