父の戒め、母の教え
チア・シード
箴言6:20-23
「聞け、イスラエルよ」(申命記6:4)に始まるモーセの呼びかけの中に、律法の言葉を「しるしとして手に結び、記章として額に付け」(6:8)などと命じているところがあります。そこには「あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい」(6:7)と命じている部分もあります。いまここでも「常に心に結びつけ/首に巻きつけておけ」と命じられています。
それはモーセの律法ではありません。「父の戒め」であり「母の教え」です。父のそれは「守れ」と言い、母のは「おろそかにするな」というから、微妙な差があるように見えなくもありませんが、こういう対句のときには、概ね同一の意味だと考えられます。それは「あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)のような律法の根本とは限りません。
父母の教えが子の歩みを導き、夜も守り、朝には語りかけてくるのだといいます。そして「戒めは灯、教えは光」である、というようにまた対句表現で示しますから、やはり父母の間に特別な差異を設けているむわけではない、と見るべきでしょう。それは、懲らしめをもたらすことがあります。そういう厳しさを併せ有つものなのてす。
箴言は特に、子に対して時に暴力的ともいえる教育を提唱することがあります。そもそもイスラエルの神が、出エジプトの民へ幾度もきつく当たってきた背景があるのです。但し、結局本当の不自由に追い詰めたり、面倒見を放棄したりするようなことはなく、愛の絆で導くのですから、神は旧約でも愛を核心にもっていたと言ってよいかと思います。
愛は甘やかすことではありません。この後も悪女や遊女から教えが守ると諭していますから、この「子よ」との対象は、あくまでも男子です。男は自ら判断し、一家一族を左右する立場にあったであろうことから、要求されるものが、女とはまた違ったということにしておきましょう。現代の観点で、これを差別だと言い過ぎないようにしておきます。