父母の教え

チア・シード

箴言6:20-23   


父の教えのみならず、母の教えも重んじる。教育は父の役割とされていたユダヤの伝統の中で、母の教えという扱いが実はちゃんと表に出ていたことに気づきます。この先、悪い女に引っかからないようにというのは、父親が息子に注意を促すものなのでしょうが、二行単位で対比がなされているという理由以上に、父母それぞれの大切さが挙げられているものでしょう。
 
心と首、これらも一つのペアであるから、結局同じことを言っているのだ、という理解をすべきなのかもしれませんが、心に結びつけるというのは、心が決してそこから離れないということを誓わせているのであり、首に巻かれたものは、命を奪わんばかりに頸を締めるものとして、違反したときに働くものだと言えるでしょう。
 
日中に歩み動くときのリードとして父母の教えは作用し、寝起きに伴いアドバイスしてくれるものとなります。こうして対比が続く中で、果たしてそれはただ父母の教えだけなのだろうかという気になってきます。ユダヤの家庭において、これはこれで一つの知恵であり教育として成立するものであったかもしれませんが、異国の現代においてそれは神の霊が導く神の言葉として受け取るべきものと理解されうるものでしょう。
 
果たして私たちの心にそれは結わえ付けられているでしょうか。それは一日中、四六時中そうであるはずのものでありますが、そうなっているでしょうか。「いつも」でしょうか。私が意識をもって目覚めているときはつねにこの呼びかけがあるのです。聖書の言葉が私に投げかけられています。眠っている時には自覚がありませんが、その守護の下にあります。
 
聖書の言葉は、行く道を照らす光となっています。この光なしには人は歩くことができません。暗闇へ迷い出て一歩も先へ進めない人の性を突きつけられます。子にとって、懲らしめられたりサトされたりというのは面白くないものでしょうが、これがあってこそ命が保たれます。命を至る道が分かるというものです。
 
聖書は人にとって、耳の痛いことを告げてきます。痛いと思わなければ嘘です。自己欺瞞の者には痛みが感じられません。神からの言葉は私にとって痛い。そこに甘さや快さを覚える場合があることを否定はしませんが、薬は毒でもあるのです。毒の力がないものは薬として役立ちません。人は皆子どもの立場です。神という父母の教えはありがたいものです。

Takapan
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