なんとしても知恵を求めよと言われて
チア・シード
箴言4:6-8
「知恵を得よ、分別を得よ」(5)が、すべてを物語っています。父が子に諭しているという形式ですが、この要点をベースに、言葉がアレンジされています。今回注目するのは、そのうちの3節分です。それらの頭の部分を並べると、知恵を捨てるな・得よ。尊べ、と迫ってきます。これらは必ずしもこの順番での手順を示しているのではないと思われます。
各節の最後の部分を拾うのもいい。分別を愛せ・得よ、と並び、最後は「知恵を抱けば、それはあなたを重んじる」と寄せてきます。節毎にテーマがあるように見えます。最初は「守る」、次は「得よ」と言っています。最後は「高める」「重んじる」となっています。こうして見ると、3つの節は、縦に横に、とつながるものがあるように感じられます。
そもそも「知恵」と「分別」とは、どう違うのでしょうか。「知恵を得よ、分別を得よ」(5)からしても、区別があるようには思えません。結局同じことを、別の言葉で表現しているだけのことで、それらの違いを分析するのは、愚の骨頂であるような気がします。詩的に並べているのであれば、哲学的に考察する必要は全くないと思われます。
縦に横に、と言葉が並んでいるように見てきましたが、すると一本一本の糸を縦に横にと織りなすことで生まれた織物の柄を、私たちは味わえばよいのかもしれません。さらに、この知恵という素材に対して、「神の言葉」をずはりあてはめるのもよいし、新約聖書の立場からはイエス・キリスト自身を想定して読むのも、その人の信仰でしょう。
ところがこのまま受け止めと、不自然に感じられる文もあります。「知恵の初めとして知恵を得よ」というのです。さらに「あなたが得たすべてを尽くして分別を得よ」とも畳みかけます。ユダヤ的なレトリックなのでしょう。これに下手な説明を加えるというのは適切ではないと思います。何も論理的な意味を含ませて書いているのではないのですから。
まず初めに知恵を求めよ、そう受け止めた後、なんとしても分別を求めよ、のようにでも読めばよいのでしょう。もちろん、これらは同じひとつのことです。力の限り主を愛せよ、という聖書の命令をと同じことです。ファリサイ派の人々や律法学者は、これをモットーとしていたのでしょう。いまのクリスチャンの理解も省みる必要がありそうです。