愛する父は子を懲らしめる

チア・シード

箴言3:1-12   


ユダヤの智慧を揃えた「箴言」は、後の時代にも、気軽に、とは言い難いが、信仰する人々の口々にすぐに上る諺のような役割を果たしています。『赤毛のアン』の会話の中に、ぽんぽん飛び出してくるのです。心に納めるのに適切な短さのせいでしょうか。しかし又、時代文化の背景の故でもありますが、ここのように「父と子」との間の教えが目立ちます。
 
やはりこれは、男社会の格言なのです。この「子」は男子です。「戒め」は、男のためのものでした。そうした戒めは、「首に結び、心の板に記して」おかなくてはなりません。そうすれば、神にも人にもよしと認められることになるのです。人が生きてゆくのには何が必要でしょうか。人の「分別」ではなく、主を知ること、主と全身で出会うことです。
 
人の道は、主によって直ぐにされるでしょう。人が自分を知恵ある者だと自負するようになったら、悪が親しげに迫ってきます。父は、分かりやすくそこに生活上の祝福がもたらされるであろう、と加えています。心身の健全さに加え、財産や収穫の恵みを事例豊かに示すのですが、だから御利益宗教に成り下がった、などと言う必要はありません。
 
これは一つの分かりやすさのためなのです。そこでエッセンスを挙げれば、「子よ、主の諭しを拒むな。/主の懲らしめをいとうな。子をいとおしむ父のように/主は愛する者を懲らしめる」との結びが迫ってきます。主は甘く優しく私たちに現れてくるとは限りません。むしろ、懲らしめがあり、厳しい試練となって及ぶようにすらなるでしょう。
 
それは、神が人を愛するが故なのです。父が子を愛おしむということは、懲らしめるということからもたらされる、とも言えるのです。人間が人間に対して、我欲から厳しくするというときには、恐ろしい結果が待ち受けるかもしれません。神がいてこその平和です。「心を尽くして主に信頼し」ようではありませんか。


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