父が子へ教える知恵
チア・シード
箴言3:1-12
1:8,2:1そして3:1と、「子よ」で始まる父の諭しが並びます。この後3:21,4:1,5:1,6:1,6:20,7:1まで同様に続きます。父から子への教育というものは、家庭におけるのみならず、イスラエル共同体にとっても大きな意味をもつものでありました。「子よ」と呼びかけると、私の言うことを聞け、というふうなところから、それは始まります。
この戒めによって、命と平和、慈しみとまことが君に及ぶのだ、と父は宣言します。律法の教えを首に結ぶというのは、実際そうしていたともいいますが、肌身離さず神の掟と共にあれ、とすることが目的でしょう。「心を尽くして主に信頼し/自分の分別には頼るな」との一言は、現代人にはともに重いでしょう。全く何もできていないのですから。
「どのような道を歩むときにも主を知れ」とは、果たしてイスラエルの子だけの問題なのでしょうか。イスラエルだからこその教えなのでしょうか。「自分を知恵ある者などと思」ってしまっているのが現状です。「主を畏れ、悪から離れよ」の戒めなしで、知恵を得たつもりになっている人々のうちの一人に、自分もかつては入っていました。
また、財産と収穫の初物とを献げて主を敬うことによって、豊かな恵みで満たされる、とも教えられています。献げることで与えられる、というパラドックスが、信仰の世界では起こる、ということを、どれほどの信仰者が経験したことでしょうか。主を知った人々が、必ずこの不条理な善さに巡りあっていることが、数々の証しで確かめられます。
実はこの流れの中で再び「子よ」と呼びかけられており、これらをカウントすれば「子よ」の数はさらに多くなります。「主の諭しを拒むな」に加え「主の懲らしめをいとうな」と、痛い目に遭うことも肥やしにすべきことが伝えられます。これは、父が子を愛おしむことと比較されます。父は子を愛しているからです。父なる神の愛なのです。