知恵の幸い

チア・シード

箴言3:13-20   


詩編もそうですが、ユダヤの知恵文学は、好んで幸いを掲げます。そして幸いを無条件によいものと認めています。その幸いは、知恵を見出すことにより与えられるという構図があると思われます。銀や金に優り、真珠も財宝も及ばない。幸いは何に基づくのか、ここに明示されているわけではありませんが、ここまでも箴言は一貫して主張してきました。
 
主の定め、律法を守ること、それが幸いなのだ、と。父が子に諭してきた、主への服従、それは人間の誘いに安易に乗ることからくる破滅を避け、命への道を教えるものです。ここでは知恵こそ命の木であると断言しています。創世記の文化が確かにここにあるとするなら、イスラエルの人にとり命の木こそ最高の目的であると言えるでしょう。
 
こうしてついに新約聖書でも、黙示録が命の木をラストに置くこととなったのです。知恵を保つ人は幸い、と箴言は告げ、知恵は掴むものではなくキープすることが必要だと教えます。そしてなんとこの知恵によって、主はこの地の基を据えたとまで言っています。このとき知恵は、英知とも言い換えられ、さらに知識とも同一視されているように見えます。
 
これら一つひとつを分析する必要はないでしょう。皆同じ次元のものです。子どもたちの心には、徹底してこうしたこと、つまり人生で何が大切であるか、を刻もうとします。確かに行いは大切です。いくら口で偉そうなことを言っても、何も手を伸ばさない者は役立つているとは言えません。ヤコブの手紙が口先の信仰を批判したとおりです。
 
しかし、行いの基に一つのプログラムというか、思想の基盤を欠いていては、悪しきものに導かれ操られていたとしても気づくことがありません。行う自らが基準となり、その中から帰納的に知恵のようなものが正義として据えられていく、これほど怖いことはない、とも言えます。私たちはいつの間にか、自分を正しいものと見なしてしまう性癖があるのです。
 
思えば、昨今の社会の空気の中に、このような「我こそ正義」という思い込みが、実際蔓延しているようにも見受けられます。それは私たちが気づかないままに芽生え、増殖し、はびこっているかもしれません。気づく知恵が必要であるし、そうして幸いを与えられる者となりたいのですが、長寿・富・名誉の意味は注意して受け取りたいなあと思います。


Takapan
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