自分の分別に頼らないという生き方

チア・シード

箴言3:1-8   


主の戒めを守れ。首に結んでおけと子どもの教育について実際にやっていたようですが、律法を肌身離さず自分のものとせよ、ということでしょう。心の板に書き記すのもそれと同様で、胸に刻み込めと私たちが口にすることに相当するのではないでしょうか。私たちは頭で分かって口で誓っても、体に刻まれていないと容易に忘れ去ってしまうのです。
 
長寿が与えられるというのが報いであるのが旧約の世界。そのようにしか表現できなかった、と見てはどうでしょうか。永遠という概念の言葉を扱えない時期には、長寿というのが実質永遠の命を示すことがあった、と受け止めたいのです。私たちだって、万年というのが一万年で終わるものではなく、永遠の意味だと理解しています。
 
この辺りは、まだ予想の範囲内の教えであるかもしれません。この次に、主を信頼せよ、と告げてきます。信仰ということかもしれません。自分の思想や分別に頼るべからず。どこまでが自分の分別で、どこからが主の戒めであるのか、それが問題です。どこまでが自分の言葉で、どこからが神の言葉なのか、私たちはそんなに明確に分かっていないのです。
 
私の歩く道のどこにでも主を体験していくことが、その峻別の決定打となるようにも思えますが、確かにそれは曖昧です。それは主の目には明らかであるはずなのですが、人の目には分からないものなのです。まさに「分からない」、つまり「分けられない」のです。自分をその判断がつく者だという自負があると、その瞬間、もう論外とされます。
 
自分は知恵ある者である。そんな間違いをすることの愚かさを、私たちは痛いほど知っているはずです。しかしそれを知らないエリートが世の中を支配して指導しているから、世界は揺れており、誤った方向に傾き走っています。そして自分もまたそのような愚かな者の一人として、こうしています。
 
主を畏れ悪から離れることで、私の体が癒される。箴言はこの連の終わりに、このような忠告を掲げ、献げ物を勧め命じています。豊かな報いが実りとしてもたらされるそうです。献げることで与えられる。なんだか安易な報酬の論理のようですが、自分の分別に頼るなという知恵とリンクすることで、何か光が射してくるような気がします。
 
私たちは、自分の分別そのものを献げるのです。自分が何か判断して大将となってしまうことから免れるようにします。自分の判断に含まれるもの、例えば自分の感情や自己愛もそうでしょうが、こうしたものをすべて二の次のものとし、ついには神に献げます。それは困難かもしれませんか、そこにこそ、平和が与えられると箴言は教えています。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります