理想の妻

チア・シード

箴言31:10-31   


箴言。諺や教訓を集め編集したものですが、それが最後の最後で女性の称賛で終わっていることを、どう見たらよいのでしょうか。美しい女性賛歌です。良妻の姿がたっぷりと描かれています。それがアルファベット詩という形で展開し、後書きもなしに箴言が閉じられます。女性を大切に扱っているようでもあり、付け加えのように見えないこともありません。
 
王たる者が、女や酒に現を抜かしていてはならない、という戒めが直前にありました。それ自体はこの箴言でよくある内容なので驚くことではないのですが、女に気をつけろ、と来てすぐに、妻たる女はこんな者がすばらしい、と掌を返すように褒めています。王であれどうであれ世の男、夫たる者は、別の女でなく、こんな妻にこそ留まれと言いたいかのようです。
 
この女というのは妻の姿です。そもそも女と妻とを区別しないで表現するような文化でしたが、ここにある称賛内容は、家庭の女であり、夫の家のために働く女の労を並べているばかりでした。夫にとり、こんなに都合のよい女はほかにないでしょう。男の理想の女がここにモデルとして挙げられているだけなのかもしれません。
 
恰も良妻賢母の鑑として、模範の像が掲げられていたかつての神国日本の女性教育の時代をのように、女はかくあるべしと、ありもしない理想像を押しつけられていやしないでしょうか。そんなことを警戒してもよいでしょう。男にとり素晴らしい女性。社会的にはその考えや立場は何ら決定権を持ち合わせない女の姿が背景にありました。
 
町の門のところで公の立場に立てるのは夫だけでした。妻は家庭内の切り盛りに終始します。衣服を誂え、食を確保し提供します。農作業で家計を支え、援助をも施し、商売もします。愚痴を漏らすことはなく、ひたすらよく働きます。見た目の美しさのために浪費するような真似はしません。こんなすごい女性に対して、知恵ある書き手は最後に何と言っているでしょうか。
 
女が自分の手で得た実を報いて公にほめよ、というのです。自分で稼ぐ分を己れの誉れとしてよいぞ、というのが報いだというのです。ほかに祝福はないのでしょうか。男は、口先でその業を素晴らしいと声をかけて終わりです。これが結婚であり家庭であったのでしょうか。箴言が締め括る理想の妻ですが、神は私たち人間一般に、こうあれかしと求めているのではないでしょうか。

Takapan
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