血の通う言葉

チア・シード

箴言2:1-9   


父が子に教育する。今どれだけできているのでしょうか。この四半世紀、男は優しくなってきたと言われます。それは家のことに関わってきたということでもあります。それでも、家事をしているとは言えない皮肉なデータもありますが、男が不合理に権威を以て威張るような図式は消えてきています。女性の社会進出も関係していると言えるでしょう。
 
他方、それでもなお男に従う価値観の中にある現実を見ることも確かです。労働条件や社会制度の中には、まだまだ男性本位のものが多く、またSNSなどでの発言の中にも、依然として旧い考えが溢れ、またひとの心を支配している様子が窺えるものが多数あるとも言えます。それはもちろん私も男としてその一人であるだろうと考えてのことです。
 
教会で、食事の用意をしたり掃除をしたりするところに、それが出ていないでしょうか。教会員の中の女性の比率と役員の中の女性の比率との関係はどうなっているでしょうか。父の知恵を子に授けるとき、ユダヤの社会事情は決して現代の価値観に基づくものではないとして捉える必要があるのは確かでも、案外何も変わっていないのかもしれません。
 
古代や現代という比較だけではなしに、普遍的な視点も含めて考える途があってもよいかもしれません。知恵を求めよ。箴言はそう命ずるし、コヘレトの書もそう結論づけていました。この形式は共通であり、保持されています。では、その知恵なるものの内実はどうだったでしょう。ここに示されてのは正義と公平と公正だというくらいのものです。
 
しかしこれらは、幸福へ至る唯一の道であるなどとも言っています。幸いなるかな、と山上の説教は告げました。申命記でも、幸いへ至る道がひとつにある、として分かれ道を目の前に見せていました。私たちはその分岐点に立っているというのです。裁きの場です。しかしまた、ここでもなお、その内実ははっきり出されていません。
 
知恵・英知・知識とひたすら繰り返すばかりです。看板を見せてはくれますが、内容は不明なのです。それでも私たちは身が引き締まるような思いを懐きます。イエスはこの知恵の具現者であったのではないか、と思われるからです。この知恵が人の姿をして物を語ったとしてら、それがイエスだったのではなかったでしょうか。
 
ここで抽象的に知恵などと示しているものが、イエス・キリストの言葉とその記録を思い起こすべしとするのであれば、私たちは襟を正して箴言に向き合いたいと思います。箴言という名の教えの言葉、諺の連続のような、どこか冷たい流れの中に、血の通う命となって伝わってくるものがあることを、感じとるようにしたいと思うのです。


Takapan
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