悪者

チア・シード

箴言28:1-7   


箴言は、ある程度まとまった内容の流れもありますが、一部を切り取って取り上げるのが概して難しく、説教に選びにくい場合があるのではないかと思います。しかしテーマを読み込んだつもりで、穿った見方をするのもどうかと思われますし、ユダヤ文化や言語についての理解は、できそうでなかなかできないというのも実情でしょう。
 
神に逆らう者と神に従う人、悪を行う者と主を尋ね求める人、こうした対比が随所にあり、結局は同じような人を指しているものと考えられますが、前者を単純に悪者と呼んでしばらく追いかけてみましょう。と言いつつ、彼らは、自分を追う者が実はいないのに逃げるといきなり書かれてあります。呵責の意識は無用な恐怖を生みだすというのは本当です。
 
弱い人を虐げる者は貧しい者だとも記しています。これもまた悪者を意味するものでしょう。どうして貧しいというのか。恐らく、ヘブル語で貧しいとあったのが、ギリシア語訳では悪いという語になっているためだと考えられます。貧しいことは悪いことだという理解を、ギリシア文化は避けたのでしょうか。このあたりも文化的な差異かもしれません。
 
神の教えを捨てるならば、こうした者を支持することになってしまいます。教えに立つということは、このような悪と闘うことにもなり、その対比がなされています。だから主を求めることが必要です。裁きについて思いを馳せ、善悪を弁えていることが望ましい。曲がった道を歩むならば、如何に富んでいようとも価値ない人生だということになるでしょう。
 
神の教えを守れ。放蕩者とつきあうな。こうした断言を文字通りに受け取ったのが、ファリサイ派などであったのかもしれません。イエスは、このような聖書のストレートな受け取り方をすることそのものが、人間の愛のなさだと感じとっていたと思うのです。文字がひとを殺すことを、腹の底から嫌っていたのではないか、と。
 
こうした箴言を突きつけられて、私たちはあまりにも軽く、蔑ろに扱っているのではないかと自問します。他人事のように箴言を見つめていないでしょうか。ユダヤの知恵文学のひとつの花ですが、キリスト者は、箴言の中にイエス・キリストをあまり見ないような気がします。でも、おまえの姿はこれだ、と見せられているのではないかと思わされます。
 
善人の側に私たちは自分を置きたくなる誘惑に駆られますが、善人に立つのはキリストのみです。だから悪人が私です。私たちはそのように受け取るしかありません。だのに、自分は善人の側にいて、快く思わない誰かを勝手に悪人に決めつけてしまうのが、私の日常であるように思えてなりません。
 
完全な道を歩むためには貧乏でもよい、とありますが、この貧乏は先に悪者と目された貧しい者というときと同じ語です。すると貧しいという段階には、善悪どちらへも分かれる可能性があると見てよいことになります。こちらは貧しくとも完全な道へと導かれた者です。金持ちは概ね肯定されていますが、二枚舌はまずいということなのでしょうか。
 
もちろんこれは、完全な人間になるという意味ではありません。あのダビデのように、無心で、ただ主の方を向き、主の前にいるという思いで何事にも向き合う姿勢が問われているのではないかと思います。純朴に、主を見上げるところに祝福がありました。たとえ欠陥だらけの人間でも。それは、自分をとことん悪者だと徹して認めることから始まるのでした。


Takapan
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