災いの中に生きる知恵

チア・シード

箴言27:10-12   


生活の知恵を集めた部分も少なくない、箴言。一つひとつの言葉がどれほど私たちの考える信仰なるものと一致しているかは分かりません。主からの言葉として受け止めるのが最善であるのは確かですが、それを始めると、私たちの唇を通してこじつけのようになっていくような気がすることもあります。自分の説明に酔い痴れることがありませんように。
 
友人を捨てるな。イエスが私たちの友となったということを思い合わせると、箴言そのものからは逸れてしまうかもしれません。父の友人と言うなら、神の友であるモーセを、つまり律法を捨てるな、というふうに読めばよいのでしょうか。血を分けた兄弟よりも信仰の友を、災いの日、終末の時には交わりの対象とした方がよい、と読めばよいのでしょうか。
 
父から子へ語る知恵という構図が全体的にあるように見えます。すると、神から人への言葉だというふうに並行して捉えることもできます。その中で、神の友である者を意識することになると、厚みのある読み方ができるかもしれません。さらに知恵は、災いにわざわざ立ち向かう必要がないこと、むしろそれは愚かであることまで、知恵として語られています。
 
知恵のない者がのこのこと吸い寄せられるのが災いの最たるものです。鳩のように素直であれとは言っても、蛇のように賢くあらねばなりません。聖書の言葉を一部だけ切り取って読むとき、私たちはこの箴言を難しいもののように思いました。誤解や思い込みの中に置かれることにもなりかねない気がします。
 
しかし一人ひとりがいまあるところが異なることを自覚し、神から与えられた書は必ず力をもつと信じるとき、切り取って受け止めることが特に悪いことと言えるはずがありません。自分が自分のためにその言葉を受けるのです。ただ、身を隠せ。そう、感情的になって立ち上がることだけが正しいのでもなく、知恵のあることだというわけでもありません。
 
災いを、この新型コロナウイルスの起こしたパニックのように当てはめたとしても、悪くないと考えます。教会は当初、医学的に無知なことからすっかりうろたえて岩なるキリストから外れてしまい、現実に苦しんでいる人々のことや、ウイルスと現場で闘う人たちのことを、すっかり忘れていました。そのとき愛も知恵も、消えていたのです。


Takapan
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