反面教師をこそ見つめるべし
チア・シード
箴言22:1-6
諺のようなものが並んでいるだけで、ストーリー性は基本的にありません。箴言の魅力は、ただ知恵を並べただけではないところにあるとも言えますが、やはりそれはストーリーとはなりにくいものです。「富める者と貧しい人が行き会う」のが世というものであるとし、しかし「どちらも造ったのは主」として支配しているのは、正に神に外ならないとします。
神は、世に正しいあり方を示そうとします。多くの対比が目の前に現れてきます。「賢い人」と「思慮なき者」、「富める者」と「借りる者」。あるいは複数の節にまたがって比べられるようなこともあります。象徴的な意味もこめて、いまの二つの対比は、この箇所に大きく響いています。知恵こそ富であり、そこに命があることを伝えます。
その知恵の中で、人は、畏れと謙遜を伴いつつ、主からの祝福を与えられる形になります。しかし人間は、模範を見せられても、なかなかそれに倣おうとはしないものです。偉人の話を聞いて、私たちはどう思うでしょうか。自分もあの人のように立派になるんだ、と禁欲的に従うでしょうか。一握りの人はそうするかもしれませんが、多くは違います。
人は人、俺は俺、と心を逸らし、自分には関係ないこととしてしまうのではないでしょうか。あるいは逆に妬みの心すら生まれ、偉人のスキャンダラスなところを探して中傷を浴びせ、こき下ろすことばかり続けているようや愚か者も現にいます。自己愛の塊です。自己認識のできない者です。だから、自分を認識することはとても大切なことです。
おまえは「曲がった道」にいるではないか。「不正を蒔く者」だと自覚しないのか。「嘲る者」として、「裏切り者」として、「主の憤りに触れた者」になっていることが分からないのか。「弱い人を虐げる者」「富める者に貢ぐ者」こそが、おまえ自身の姿である、ということに気がつかないか。聖書はしばしば、そのように問いかけます。
だが私たちの目は、善良な人の例示の方にばかり気楽に目を向け、能天気にこんなことを言います。自分はこっちの側だな。自分は神に褒められるタイプだ。ああ、信じてよかったな。なんとおめでたい。さあどうするか。ここには、若者への教育方針が述べられています。訓練が必要だ、と。私たちは主の前に、その若者以下ではないのでしょうか。