人の性を見据えて

チア・シード

箴言21:1-7   


人の道は、自分の目にはすべて真っ直ぐに映る。「すべて」です。地表に続く道は地球表面上だとカーブを描いているはずですが、それさえ真っ直ぐにしか見えないのです。そのため古代人は「地の果て」を想定しました。人間はそうして自分の立場から見えるものを真理だとし、自分の視界こそ万全であると考えることしかできませんでした。
 
主はあらゆるアングルから物を知ることができます。裏も底も知っています。だとすれば、恐ろしいと感じて当然でもありましょう。しかし主にある者は、それが安心なのである、といいます。心の中を調べる主に対して、もはやじたばたしても始まりません。開き直るというのではないけれども、委ねることしかもうできないわけです。
 
生け贄でなく正義と公正。これが、聖書の基本です。イエスはそこに憐れみを加えました。バリバリの正義を貫くことは望ましいことではなかったのです。どうしても人は、正義というスローガンを胸に立ち上がると、高ぶる目を有ってしまいます。そうして視界が得られたら、そこへ嘘や欺きが乗り込んできます。このとき当人は真実だと思い込んでいます。
 
己れの利を目的とし、弱い立場の者を虐げ、搾取してしまう、そのような暴力を自ら振るっているにも気づくことなく、結局それが自分のことをも滅ぼすものとなってしまうのです。自らの死を求め、たぐり寄せるようなものです。人は、それに警告を与える神の思いやりを知ろうともせず、もちろん人が自由にそれを操るようなこともできません。
 
その思いのままに方向を定めて流れる水路のように、主にある者の心がたとえられている点が注目されます。慌てて事を行うと損失を招くという、単発的な句のように見えるものも、人の浅知恵よりは遙かに優るものです。人の知恵はその場限りのものですから、冷静に深く主に問いかけて考えるべきです。悪の計画にはその思慮が決定的に足りないのです。


Takapan
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