腹の隅々まで

チア・シード

箴言20:24-30   


箴言が寄せ集めの知恵であるという見方もできるでしょう。そこに並んだのは偶々であって、関連づけて理解できない場合も多いのだ、と。無理にこじつけると、読み誤るかもしれません。この箇所もそうですが、「腹の隅々まで」という言葉が二カ所あることから、少し引っかかりを覚えてしまいました。無関係かもしれませんが。
 
後の方は「激しい打ち傷は悪を清め、傷は腹の隅々まで清める。」と新しい訳にありました。他の訳や解釈でも、ここは父親が息子を教育する様子を描いているようにしています。半端ない叱り方です。体罰です。傷つけることは何の問題もなく、むしろ魂が曲がり神に裁かれるよりはよほどよいことだと考えられているのだと思います。
 
その傷が腹の底までえぐるように清めるとしているのですから、人間は、それも子どもであっても、腹の底まで悪がしみついていると考えているのです。原罪という言葉を使わずとも、人間は底の底まで粛清されなければ、悪の根を退治することはできないというわけです。でも、これでは人間の手によって人間の悪が清められる、と読めてしまいます。
 
キリスト者は、人間自らが自分を清めることはできない、と考えているはずですから、これには引っかかりを覚えることでしょう。そこで、もう一つの箇所を見ると「主の灯は人間の吸い込む息。腹の隅々まで探る。」と言われています。これは新共同訳も同じです。息という語は霊をも意味すると理解すると、腹の隅々まで神の霊が探りを入れるようです。
 
これなら、人の手ではなく、神の業として、人間の腹の底に触れられると読めますから、私たちも安心できるかもしれません。腹の隅々まで、人が手を下すのではなく、神こそが入り込んでくるのですから。この景色を背景として周辺を読むと、人の歩みはそのような主によって確かなものとされることが分かります。自分で清めるのではありません。
 
こうして主の前に生かされているのが人間というものです。ならば、最終節の教育の厳しさは、人間の父親が激しく打つと決める必要がなくなるでしょう。神が人を打つのです。いえ、人はそれに耐えられないから、神は御子イエスをその代わりに、徹底的に傷めつけ、打ち据えたのです。この痛みが私たちの腹の隅々まで届くかどうか、そこが鍵となります。


Takapan
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