皮肉な箴言

チア・シード

箴言1:1-15   


箴言というのは、教訓や戒めの言葉、あるいは諺というような意味です。旧約聖書の中央辺りに、このタイトルの書があります。物語が皆無とは言いませんが、基本的に諺を並べたようなものとなっています。素直に読めばそれらは、目上の世代からのお説教だとして受け止めておけばよいのですが、穿った読み方も、偶にはしてみてよいでしょうか。
 
これは「知恵と諭しをわきまえ/分別ある言葉を理解するため」としています。人には本来、知恵と諭しがなく、分別ある言葉が見極められていないというのでしょう。「未熟な者に熟慮を教え/若者に知識と慎重さを与えるため」というからには、若者は熟慮せず、知識と慎重さがないという前提に立っていることになるのでしょう。
 
事実、箴言の初めは、父が子へ教えるという形式であり、悪を好みそこへ誘う者たちとつながることのへの、強い警告なのでした。彼らのことを箴言は「罪人」と言い切っています。冷たい響きですが、そうとしか呼べないことも確かでしょう。その罪人たちにも父親がいます。その父は、このような諭しを子に与えることができなかったのでしょうか。
 
それとも、諭しを与えてもなお、子は罪人となってしまったのでしょうか。だとすると、ここでこの教えている父の子も、それを聞いて従うかどうか、分からないわけです。空しくありませんか。それ故に、この後にコヘレトの書にその「空」がつながっていくのとは違うと思いますが、どちらもソロモンの名が関与していることにも注目すべきです。
 
民衆に慕われて実質的にイスラエル王国を築いたダビデ王の子の一人・ソロモンは、後継者争いを血生臭く乗り越えて王位に就き、イスラエルの最繁栄の時期を築いた王だとされています。ソロモンは、その子レハブアムへと王位を渡すときは、自分と違い、何の問題もなく、すんなりと進んでいるように記録は描いています。
 
ソロモンがこうした教えを、レハブアムに施していたという設定になっているはずですが、とんでもないどら息子になりました。ダビデ王朝にずいぶんと好意的な歴代誌はソロモンの罪を省いていますが、それでも、彼への評価は厳しいものがあります。息子の愚かさは暴くのです。いえ、隠せなかったということなのでしょう。
 
レハブアムは正に、悪い連中と共に道を歩んだのです。箴言の筆者がこれを皮肉のように描いているのだとしたら、私はむしろ拍手を贈りたいと思います。でも、たぶんそうではないでしょう。気づいていないのだと仮定すると、私たちは改めて、ここにひとの罪というものを見せつけられるような気がします。もちろん、それはまず私のことです。


Takapan
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