欲望の舌に耳を傾けるな
チア・シード
箴言17:1-5
一つひとつの箴言が、それぞれの人の心に働けばよいのです。その集まりをまとめて解釈するのは、本意ではありません。ただ4節の「欲望の舌」という言葉に足場を置いて、この辺りの声を聞いてみようかと思います。これは欲望を満たすのだという声を指すと共に、欲望を正当化する言葉をも意味している、と理解できます。
「いけにえの肉」ですら、そこに争いがあるならば、むしろこの舌に従っていることになるのです。これは正しい教えだ、と掲げ、それを尊重する自分たちも正しいのだ、と自己義認するところに、それがあるのだと思います。自分は豊かである、と思いこむからには、見た目の「貧しい人を嘲る」ことも、当たり前のように行うことになります。
しかも自分がそうしていることにすら気づかないのですから、もうブレーキをかけることもありません。ひとの貧しさや不幸を喜ぶところには、神からの光は届きません。しかし、箴言が希望のある道を提示している点の方に目を移しましょう。そこに「一切れの乾いたパン」しかない、としても、平和があればそれはかけがえのない財なのです。
たとえ「恥をもたらす子」であっても、誰かが知恵と共に導けば、豊かな財を与えられる、ということも言っています。しかも「分け合う」のですから、ひとりでの出来事ではありません。金銀が美しく整えられるように、人の心は主からの言葉によって、美しく豊かなものになります。ただし警戒すべきは、すり替えです。
自分がそれをしてやるのだ、と考えがちな罠があるからです。そのような「すり替え」を促すのが「欲望の舌」なのです。「悪の唇」ともそれは呼ばれます。質の悪いことに、人の外からそれは聞こえてくると共に、その次には人の内から発されてゆくようになります。そして、他人に働きかけて、同様の人を生み出し、育んでゆくことにすらなるのです。
自分は豊かだ、自分は偉い、そのように錯誤した者は、見た目の貧しさを蔑むようになるでしょう。それは「造り主」なる神を「見くびる者」なのです。人の「災いを喜ぶ者」は神に罰されることになります。何千年も前の先人が得た知恵は、過去のものに留まらず、現代の、自らを偉くする人間たちを、戒める力をなお有っているといえます。