神のテスト

チア・シード

箴言17:1-5   


果たして乾いたパン一片の許で、平安があるのでしょうか。現実性を思うとき、本当にそうだろうかと考えてしまいます。確かにこれは知恵です。現実ではなく喩えであり理想であると言われればそれまでですが、現実的でないとすれば、その知恵にどのような価値があるのか、と問われても仕方がないかもしれません。
 
知恵者の提言は、ここで平安をもつべきだと言っているわけです。それはいわゆるシャロームではありませんが、静けさや穏やかさというものを意味しています。富があり、宗教儀式に務めを果たしていたとしても、そこに争いが混じっていることはよろしくないのだ、と教えています。耳の痛い話です。宗教関係で権力争いがあるのが世の常ですから。
 
形だけ、建前の良さが内実を決めるのではない、と受け止めましょう。当時、奴隷という身分は自由を許さないだけであって、才覚のある者は重用されました。血族の自由人の息子が才能なく、奴隷が役立つケースもしばしばあったことでしょう。遺産の一部はその奴隷の立場の者にも与えられるということは実際にあったように考えられています。だとすると、なかなか進んだ社会であると言うべきではないでしょうか。
 
貧しい生活をしているというだけで、その人を蔑むようなことがあってはならない、ということにもそれはつながります。特に、災害に遭い不幸な目に遭った人を嘲笑うようなことは厳に慎まなければならないということでもあります。どんな原因であれ、貧しい人をも造り主は創造されたのだ、とここに指摘されています。確かに神はすべてを造られたのでした。すべての存在者が、神の造作あるいはゆるしの中にあるというのならば、これを軽んじることは神を下に見るようなことにもなるでしょう。
 
こうして、人は神のテストを受けています。人が悪を企んでよいだろうか。己の利のために偽りを以て策略を立ててよいだろうか。それを誘惑する者として、悪の唇だとか滅亡の舌だとかいうものが想定されています。この擬人化は、悪魔と呼ばれるものでもありましょう。そこに従っていってしまうのかどうか、テストを与えられているのです。
 
私たちは、恥知らずな息子となっていないでしょうか。かつてキリストの弟子たちは、誤ったユダヤ人の兄弟から分かれて道を見出したのでしたが、歴史の中で独自の道を進むとき、キリストの弟子たちは教会組織を世の権力として手に入れて、すっかり逆の立場を演じるようになったのではありますまいか。その中に安住して、私たちもただ棹さしているだけではないでしょうか。神のテストは続行中です。


Takapan
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