フィレモンに迫るパウロ

チア・シード

フィレモン8-20   


短いフィレモンの手紙の中で、挨拶めいた箇所を除き、手紙の主文を記したところだけに今回は目を通すことにします。パウロは「年老いて」いました。とはいえ、せいぜい五十代になったばかりのようなものではないでしょうか。「キリスト・イエスの囚人隣っている」のです。もちろんキリスト者たるものは、そうしたものでありましょう。
 
しかしパウロは、現実にも囚人だったようです。オネシモという奴隷身分の人がいました。パウロは、「私の子オネシモ」と呼んでいますが、年齢の若さを示すとは限らないでしょう。「獄中で生んだ」も、文字通りに受け取る人はありますまい。パウロはオネシモに出会い、イエス・キリストの救いを伝えたのであり、オネシモはそれを信じたのです。
 
オネシモは、かつて「協力者フィレモン」(1)の許にいました。「そのオネシモをあなたのもとに送り返します」とパウロは言っています。「本当は、彼を私のもとにとどめて、福音のゆえに獄中にいる間、あなたにではなく私に仕えてもらいたいと思った」というのがパウロの本心のようです。それをどうやら脅してでもそうすることはできたのでしょう。
 
でも、パウロは紳士的に振舞います。「自発的なものであってほしい」と言うからには、「送り返します」としながらも、そんなことにならないようにさせてくれ、とパウロは暗に強く言っているように感じられます。フィレモンはもちろんキリスト者です。が、今やオネシモもキリスト者となったのだから、ある意味で兄弟です。
 
オネシモを戻せというフィレモンの声に従うならば、もう奴隷として扱えないぞ、キリストにある兄弟として接することしかできないのだぞ、「愛する兄弟」として向き合うようなことができるのですか。オネシモは、パウロと同じキリスト者の同志として、これから付き合っていかなければならなくなるのだが、大丈夫なのか、と問うています。
 
オネシモは何か失策をしたのでしょう。それは監督者たるパウロの責任とするから、彼を虐げず全部パウロのせいにして、損害の請求をパウロに寄越してくれ。「私パウロが自分の手でこう記します。私が返済します。あなたが自分を、私に負うていることは、言わないでおきましょう」とは、なんともいやらしい表現です。
 
私からは、これまでずいぶん世話になったよな。さあパウロを喜ばせようとしてくれないか。パウロを元気づけてくれないか。そんなふうに迫られて、さあ、フィレモンはどうしたでしょうか。なお、パウロが自筆であることを強調するのは、それが法的な証拠となるためだと思われます。法的な有効性を、この手紙はもっていると言いたいのです。


Takapan
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