含みをもつ言い回し
チア・シード
フィレモン4-20
「年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている、この私パウロが、獄中で生んだ私の子オネシモのことで、あなたに頼みがあるのです。」このために綴っているのですが、この獄や囚人というレベルについて、確かなことを私は知る者ではありません。エパフラスもまた囚われの身だと言っていますが、宿を頼む、とも書いています。
冒頭から「キリスト・イエスの囚人」と言っていたのはレトリックであるとしても、オネシモをキリスト者にしたのが獄中であったことは確かでしょうから、今オネシモを元主人のフィレモンへ送り返すという事情が、具体的にどうつながっているのか、いろいろ想像力をかき立てるものです。フィレモンは信仰篤く、愛に満ちた人物だとパウロは言います。
しかし、オネシモを自由にするべく圧力をかけているのかもしれませんし、以下たっぷりと、社交辞令を超えたお世辞を並べているようにしか見えません。「あなたのなすべきことを、キリストにあって極めて率直に命じてもよいのですが、むしろ、愛のゆえにお願いします」と書かれてあるのも、本心は命令だと言わんばかりであるように見えます。
パウロの「心そのもの」であるほどのオネシモを、フィレモンに送り返すのは、奴隷を主人の許に戻すという筋を通さなければ事情が表立ったということなのでしょうか。フィレモンから強い要請が届いたのかもしれませんが、何事にしても断定を拒むほどの、まわりくどい言い方がここにあります。「あなたが私を仲間と見なしてくれるなら」ですと。
オネシモの負債をパウロが支払う、とまで言っていますが、続いて「あなたが自分を、私に負うていることは、言わないでおきましょう」とは、いやらしい言い方ではありますまいか。なお、前後の挨拶では「主イエス・キリスト」と表記していますが、本文では「キリスト・イエス」「キリスト」が強調されています。これが権威をもつように思われます。