パウロの特殊性と普遍性

チア・シード

フィリピ4:4-7   


パウロにはパウロの事情があります。その生きていた情況の中で神と出会い、神からの霊に動かされてこれらの言葉を綴っています。パウロのその時の特異な時空の条件の中でこぼれてきた言葉が、こうして残り、私たちにまで伝えられています。それが生まれた背景にはちゃんと理由があるでしょう。
 
パウロが感謝することばかりのフィリピの教会の人々たち。しかしパウロが捕らえられたことで落胆していないだろうか。パウロの気遣いと信頼とが満ちている書簡です。キリストに従うことが何か損になるようになど考えてもらいたくないのです。今パウロには、どんなことでもありがとうと言えるものだという心境になっていると思われます。
 
そう、この世は感謝に満ちている。キリストを目指して生きてよいのです。仲間と共に手をつないで歩み進んでほしいのです。そのためにパウロは喜びたい、そう、これは喜ばしいことではないか、とアピールします。どれほどのクリスチャンがこの言葉に強められたことでしょう。とても喜べないときにも喜べる秘訣があるのだと教えられるからです。
 
神の与える平安は、人の思いの及ぶところをすべて超えてはたらきます。パウロからこぼれたこうした言葉は、もはやパウロだけに適用できるだけの狭いものではありません。パウロの置かれた情況に制約されず、普遍的に、とにかくこの言葉に出会った人すべての力が及ぶものとなっています。神は言葉として迫り、その力は万人に及びうるのです。
 
主は近い。今にも主は再びくるという時間的な近さでしょうか。今すぐそばに主はいるという空間的な近さでしょうか。どちらもあるのでしょうが、時空の問題に制限するのももったいない気がします。パウロやフィリピの人々にのみ近いのではないと思うのです。読者は今や全世界に拡大しています。誰でも皆この手紙が与えられ、向けられています。
 
すべての人々にとり、主が近くなっているのではないでしょうか。主が遠くから捕囚の地へ現れたような預言とは違い、今ここにいるというのです。どこか離れた神へ祈るのではありません。主は近くで交わってくださいます。私たちのようにパウロ自身思いも及ばぬほど遠い地、遠い未来の私へも、同じ主が臨在する、その近さを保証しているように思うのです。


Takapan
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