パウロに倣え

チア・シード

フィリピ3:17-4:1   


フィリピ教会へ向けてのこの手紙は、獄中で書かれたとされていますが、研究者の中には、これが幾つかの手紙の寄せ集めではないかとする人もいます。長い手紙を書くことは私にもありました。日を改めて書く時には、前日の論旨から飛躍することもありました。改めて途中から書き始める場合もあったとすると、必ずしも別の手紙とする必然性はないようにも思われます。が、とりあえず、いまは一つの書簡としてここに伝えられています。
 
ここでは、なすべきことは一つだとして、賞を目指して走るという、パウロが時々示すスポーツの喩えを用いて、生き方を示した後、このパウロを見ならってほしいと叫んでいます。もしかすると、パウロの手紙は何が一番言いたいのか、を決めなければならないとすると、この辺りにあるのかもしません。パウロという人間の生き方がここに凝縮されているように見えるのです。
 
パウロを見よ。パウロを慕う者を見てもよい。キリストの十字架を掲げ歩いているのだ。先に犬どもと呼び捨てた者は、ローマなどの異教の状況を示しているというよりも、むしろよこしまな働き手であると言われています。つまり、キリスト者なのです。パウロは基本的に、割礼主義者のことを念頭に置いていることでしょう。しかし割礼という儀式が悪いと私たちが受け止めても益はありません。誰もが犬になり得るのです。
 
パウロだって割礼は受けていました。しかしそれは不要に思うようになりました。キリストの十字架の故でした。でもそうではない人々がいます。自らはキリストにつく者だと称しているが、とんでもない輩です。自分の腹に仕えているだけで、自分の考えや信仰こそ正義だと思い込み、いつの間にか自分自身を神としていることに気づかない者たちです。彼らは口先で天国のことを言ってはいますが、この世のことしか考えていないのだとパウロは看破します。
 
いかにもクリスチャンのようなことを口にはします。教会に熱心に通っています。しかし、出てくるのは自己肯定ばかりです。もちろんやたら自己否定に陥るのはよろしくありませんが、自己否定が偽の謙遜に過ぎず、実際は自分が可愛いだけ、という精神構造は、身近に見出されるのではないでしょうか。あるいは、自分がそうではないのか、と自問する必要も当然あるでしょう。私たちの誰もが、犬になり得るのですから。
 
パウロの確信の根は、天にあるのだと高らかに歌います。自分が自分である原理は、神にあるのです。自分に関する事柄も、キリストが主語であり、主体なのです。パウロに倣うということは、主によって立つことであり、そのように勧めますが、それは主によって立たされていることにほかなりません。主により起こされており、かつて死んだ自分から起こされていることなのです。


Takapan
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