キリストの信の中でひたすら走る
チア・シード
フィリピ3:8-18
割礼というユダヤ人の誇り、イスラエルのベニヤミン族という生まれ、正真正銘のヘブライ人でエリートのファリサイ派。パウロには申し分のない肩書きと出生が備わっていました。「しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった」(3:7)のでした。キリストの他はすべて損失、価値なきものなのです。
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地位も名誉も特権も、何もかもがもはや「屑」だとしか思えません。キリストにあること以外に、求めるものは何もないのです。「主にあって喜びなさい」(3:1)などと、喜ぶことを幾度も強調することは、このキリスト一本の魂に基づくと言ってよいのでしょう。律法を自分の味方につけている故に、つまり守っているために正しいのではありません。
罪赦された喜びというものは、ただキリストの信によってのことなのです。かつては「キリストを信じる信仰」というように訳されていました。聖書協会共同訳では「キリストの真実」と変わりました。ずいぶん印象が違います。その「事実に基づいて」神が与える義というものを受けているのだ、と高らかに言います。「真実」はさしあたりの訳でしょう。
「真実」と訳された同じ語が、人間のものならば「信仰」あるいは「信頼」にもなります。「信実」と訳す人もいます。この問題だけで何百頁もの論文が書けるほどのテーマです。ここからパウロは、今自分がすでに栄光のゴールにいるわけではなく、それを比した目指して走っている途上にいるということを強調し始めます。
「完全な者になっている」わけじゃありません。しかしこのように考えるべき者は「完全な者」だとも言っています。これには戸惑います。もちろん、その指している意味は異なります。そして日本語の「完全」の意味とうまく重ならないのです。「ひたすら走る」ことが肝要であり、しかも一人ひとり置かれたままに相応しく進んで行けばよいのです。