カルト宗教の基本図式

チア・シード

フィリピ3:8-16   


信仰はよく、委ねることだと言われます。自分から何かを欲し、じたばたとするのは人間的なことであって、神の言うままに従うことこそ信仰である、と。実際聖書を読むと、まさにその通りだと思えるような記事がたくさんあり、自分の思いを優先することは不信仰であると思ってしまうことがあります。また、指導者がそう告げることがあります。
 
自分を捨てること、自我を放棄することが神の祝福なのだ。確かに、修道院でそのような教えがなされることはあるでしょう。少なくとも、ありました。一面の正しさはあります。人が自分で絶対正しい、と言い張ることの貧しさは分かりますし、自分の腹に仕えること、自分を神とすることが戒められて然るべきであることは本当だと思います。
 
私は――と「私」が出てくるとまた問題であるかどうかは別として――、2つのレベル差を意識したいと考えます。自然法的な方面、つまりイスラエルの神の顕現なしにでも人の良心に備えられている善悪の基礎的な判断がもしもあるとすれば、異邦人にも、これはよろしくないと共通に認識されていることはあるのであって、これを犯すことは悪だと見なされます。
 
欲望を最優先して他人や社会を破壊する行為を棄てよ、と命ずることは普遍的に認められることだと言えるでしょう。しかし、そうしたことを守り、純朴に善行に勤しんでいるにも拘わらず、そのことで他人を破壊する、ということも十分起こり得ることだと気づきたいと思います。これがファリサイ派や律法学者など福音書でイエスが闘っている相手たちです。
 
自分は正しい。だから自分の言うとおりにしろ、と威圧します。正しいだけに、言われたほうは逆らえません。カルト宗教と呼ばれるタイプでは、幹部が信徒に委ねよと迫り、信徒を従わせる一方、その幹部は自分を神としており委ねることなくむしろその反対のことをなすという図式になっているのです。
 
残念ながら、キリスト教会というところにも、このような図式が時折見かけられます。それが性暴力の形をとって問題になることも近年しばしばです。だってリーダーは統率を執らなければならない、権威が神から与えられているのだ、そんな言い訳と共に上に立つ者が、自分は神の代理と思い込み、その状態で変質していってしまうわけです。
 
パウロがここで必死に求めている様子に注目します。パウロ自身、救いが与えられているはずなのですが、しかし何とかして復活に到達したいと走っています。賞を目指してパウロも、私たちの横を並んで走っています。カルト幹部にはこれがありません。パウロは完成を信じ期待していますが、だからこそ努めています。キリスト教が律法的にならないための一つの模範でありましょう。

Takapan
もどります たかぱんワイドのトップページにもどります