すべてはキリストの復活の力による

チア・シード

フィリピ3:7-11   


思うところを程よく素直に明かすことができるリラックスした気持ちを、パウロはフィリピの教会に対してもっているように見えます。もちろん、それは完璧な教会ではありませんでした。しかし、パウロは自分の言葉が通じることを感じていたと思われます。ここで次々と繰り出す言葉は、確かにパウロの本心なのだろうと思いたいものです。
 
「キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい」のです。苦しみと死の姿。そこから、キリストの復活を力として、自らもその復活に達したい、と言うのです。パウロはこのとき、牢の中にいたようです。いつ死刑執行を言い渡されるか知れない毎日でありました。
 
死は、抽象的な空想ではありません。そうなると、この世で誉れとなるようなものについては、何の価値ももたないものとなってしまいます。パウロはそれを「肉の頼み」(3:3)と言い、イスラエルのベニヤミン族として由緒正しき家系に生まれ、ファリサイ派として熱心に働いてきたと証しします。働くと言っても、キリストの教会を迫害したのです。
 
律法について厳格に生活していたのですから、律法を守ることによって救われるものではない、と誰よりも分かるのでしょう。ルターも、そのことに気づいたのだと思われます。「しかし」と、パウロはすべてのメソッドを引っ繰り返します。この世でのこうした利益を「損失」としか見ないようになったのです。さらに、そればかりではありません。
 
「私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」が、すべてを圧倒したのです。パウロは、この世で利益となるその立場や経験を、皆棄ててしまいました。さらに、「それらを今は屑と考えています」と公言しています。そればかりか塵芥とも呼ぶし、凡ゆる自分の経験も肩書きもステイタスも、無価値であると言い切ってしまいます。
 
パウロには、キリストの他のものは、もう顧みるべきものではなくなっています。そうなると、キリストを得て、キリストの内にいることがすべてとなります。そこにあるのは、「キリストの真実による義」であり、「その真実に基づいて神から与えられる義」です。そしてそれはすべて、「キリストの復活」がもたらすものです。そう読みたいと思います。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります