キリストの内でキリストを得て

チア・シード

フィリピ3:7-11   


キリストの故に失ったすべてを、いまや屑だと思っている。今では、ということは、かつてはそうでなかったということでしょう。パウロですら、しばらくは価値を認めていたのです。イエス・キリストを知ってからは変わりました。キリストに出会う経験を境としてこれを分けるということになるでしょうが、さて、それはいつなのか。
 
キリストと出会ったその瞬間に突如変わった、というふうには私は想像しません。いろいろ葛藤もあったと考えたいのです。私の主イエス・キリストとして告白し、全き従順を以てすべてをキリストのために献げる、といったことがそう簡単にすぐに起こるようには思えないのです。
 
ヘブライ人として、またローマ市民としての誇りがパウロにありました。そこから抜け出るためには、段階を踏んでであったに違いないと思うのです。この段階なるものがあったからこそ、次には、なんとかして復活に与りたいと口にするのではないでしょうか。苦しみと死を経過して、それからその向こうに復活に至るというのです。
 
救いの希望を確信としてもっているからこそ、それが言えます。これか可能であるのはどうしてか。パウロは獄中で綴る手紙の中で、短い表現でありながら、ちゃんとそのことに言及しています。キリストを得ている、キリストの内にいる。この一見矛盾した言い回しでこそ表現されるあり方が、パウロの理想的な状態であるのです。
 
恐らくパウロは、この心境にすでに達していると思います。パウロは、律法で自分が正しい身になるとは全く考えていません。新共同訳で「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」とあるのは、聖書協会共同訳では「キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義」と変わっています。
 
もちろん注釈で、この「真実」は「信仰」だと新共同訳の訳もありだと加えていますが、思い切ってピスティスを「真実」と訳しました。不自然な「キリストへの」が適切な「キリストの」となった点で前進です。私たちからの信仰で救われると決めつけず、キリストの真実がまずあり、それに応える私たちの信仰が共にある中に救いがなされるのです。
 
ピスティスはどうしてもキリストが主体でありたいものです。だから私たちはキリストの内にあるのだし、そこからの信仰のレスポンスがあればこそ、キリストを得ているのだと確信がもてるわけです。さらに、こうしてキリストとの信の関係の中にあることが、これまたキリストの内にあるということであるのかもしれません。


Takapan
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