反面教師の向こうに見る栄光

チア・シード

フィリピ3:17-21   


「何とかして死者の中から復活に達したい」(3:11)と、未だ途上であるということを熱心に語ってから、パウロはフィリピの人々に、「私に倣う者」となるように勧めます。なかなか言えないことです。また「私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」とも言います。これも言えたものではありません。「私たち」とはテモテとパウロです。
 
これに対して、反面教師とすべき対象があります。「キリストの十字架の敵として歩んでいる者」です。具体的には分からないのですが、「腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えてい」ない、と多面的に説明されています。これらを兼ねている一派があったのか、それぞれの特徴をもつ者が集まったグループであるのか、分かりません。
 
けれども、恐らくはそうした教えをベースにもっているとパウロが非難するグループを想定いるのでしょう。キリストの名を掲げつつ、そうしているケースも想定され得ます。「腹を神と」する、それはどういうことでしょう。「下腹部」との訳も注釈に加えられていますが、そひうなると欲望のままに振舞う、神を知らぬ者に限定されそうです。
 
「腹」であるならば、私たちクリスチャンすら他人事ではなくなります。神を敬っているように見せかけながら、そして自分でも神を信じていると思い込んでいながら、実のところ自分が神になっているという事実が指摘されていると理解できるからです。「しかし」とパウロは姿勢を正します。そして「私たちの国籍は天にあります」と勇敢に語ります。
 
当時の感覚だと「市民権」でしょうか。もはやこの世に立脚する者ではありません。特別な権利を有っています。パウロのもつローマ市民権のようなものです。キリストがやがて来ます。その「天」から来ます。キリストは万物を支配しており、私たちの卑しい体は、キリストの栄光の体と同じ形に変えられます。パウロはここから「喜び」を告げ始めます。


Takapan
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