磁石の喩え

チア・シード

フィリピ3:17-4:1   


何かしら一つの目標へ向けて前進しているという姿は好ましい。教会もそういう状態になっていれば、活発であると言えるでしょう。ちょうど、磁力が、どの物質の粒子も磁力を帯びていたとしても、ばらばらの方向に散らばっているだけでは全体として磁力を呈することがないのと同様です。磁性体となるためには、皆の方向が揃う必要があります。
 
ただ、その磁石自体も、中央部の磁力が消えることになります。それなのに、すべてが同じ方向に向くと盲点などないように思い込んでしまう危険性があります。これを弁えなければなりません。パウロは、自分に倣えと言いました。倣っている人のことを見よ、とも言います。キリストの十字架に従う巡礼者のような一群が生まれるのでしょうか。
 
これに従うのでなければ、己れの思いや欲のほうを、いつの間にか神としてそれに仕えてしまうのだ、と厳しく告げます。見渡すところの地上をこそ見るだけで、天上のことなどひとつも考えられず、気づかないありさまなのだ、と。その天から、救い主イエス・キリストが来ます。再び来るのを待っているということになります。
 
私たちはいつまでも、このままの形であるのではありません。栄光の姿に変えられるのです。今はひたすらそれを待っている状態です。この、磁力をもつ人々の流れこそ、パウロの求めるところでありました。まことにキリストへと向かうその一途な思いは尊いのですが、その宣言のすべてに諸手を挙げて喜んでいられない点に目を向けましょう。
 
人の世のものが巧みに紛れ込んでいます。純朴な心をこそ、釣りやすい、引き寄せやすいとほくそ笑んでいる者がいます。この磁力がまっすぐに天へと通じているならば幸いですが、常にそこに罠が待ち受けていると警戒しましょう。地上から天を簡単に得られますなどという詐欺が横行しています。聡くして、それから守られますように。


Takapan
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