キリスト教の宝

チア・シード

フィリピ2:1-5   


「あなたがたが一つの霊によってしっかりと立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦って」(1:27)いることは、「はっきりしない言葉パウロの期待でもありました。フィリピの教会にパウロは信頼を寄せている様子を見せます。これがコリント教会相手であったら、そこに皮肉が感じられましょうが、こちらはたぶん文字通りなのでしょう。
 
その割にはここでは「幾らかでも」キリストからのいろいろな恵みがあるのだったら、と言い、「思いを一つにして」パウロの喜びを満たしてほしい旨書かれています。パウロはこの教会に滞在していたことがあります。そしていまは離れています。何かしら不安な要素もあったのではないでしょうか。コリント教会とは違う形での懸念です。
 
具体的な生々しい問題が、次から次へと舞い込んでくるわけではなかったと思います。でももっとフィリピの教会には、福音が花咲くような教会となってほしい、という願望があったのではないでしょうか。その辺り、実際のところは推測以上には分かりません。「利己心や虚栄心」も、それを言うからには見られたのだ、とも言えます。
 
それとも、人間にはそういうものも当然あるのだ、という前提で、より完全な教会であってほしいのだと思い、いろいろ注意すべきことを書き送っていたのでしょうか。否、これはもう、フィリピ教会の事情を言い当てようとする場合ではありません。これは、私たちへの手紙です。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と。
 
現在の教会に対して、その誰もがそう呼びかけられています。なぜなら、キリスト・イエスにもそれは見られるからだ、とパウロは締めています。互いに相手のことを心がけるということは、口で言うのは簡単かもしれませんが、実際自分は、自分で言うほどのことができているようなことはありません。自分に対して、私たちはきっと甘いものです。
 
それで、この後にキリスト賛歌とも呼ばれるような、素晴らしい言葉が並ぶことになります。こうして、この2章の前半は、キリスト教にとって、宝のように輝く箇所となります。18節までを大きく紙に記し、壁に貼っておきたいものです。いつも目に留め、読み上げるような教会が、いまあるのでしょうか。あってほしいと思います。


Takapan
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