本当に重要なことを見分けるために

チア・シード

フィリピ1:8-11   


本当に重要なことを見分けられるように。さりげない一言が重くのしかかり、聞く者の心に留まります。本当に重要なことがあるならば、本当は重要でないことが混在しているはず。人により思い当たるものは様々異なることでしょう。金であったり物であったり、名誉であったり、地位であったり。そうしたものを神からのものと区別することは大切です。
 
そのためには深く知る力や洞察して見抜く力とが必要になるでしょう。また、それは愛を豊かにするものでなくてはならない、ともパウロは言います。単なる知識ではなく、愛に基づくものであるべきだというのです。責められること、とがめられることがない者となることも、目的とされています。それはまた、責める者がいることをも示しています。
 
責める者、それは神であるかもしれないし、サタンの本来の意味でそうなのかもしれません。その解釈はいま問いません。少なくとも、それは私自身ではなく、私の外から責めることは違いないでしょう。私が自ら私の罪を決めるものではない、ということです。すると、この私は、私自身を評価するという事態そのものを区別しておかないといけないとも言えます。
 
つまり、区別すべきものというのは、自己評価であり、自己愛であるわけです。私にはそうするべき理由があった、あのときは仕方がないことだった、私はこれでよいので、自分らしくいるのだから、などと言い訳ばかりが先走りする私たち。あるいはもう初めから、自分の罪などという問題は度外視して、一切目に入ってすらいないのかもしれません。
 
義の実はイエス・キリストによって与えられる、とここでも念を押しています。キリストの大いなる犠牲があってこそ、ここに命がもたらされたのです。人には、ありとあらゆる間違いや失敗があり、取り返しのつかない過ちがあるのですが、十字架は何もかもを、いうなればなかったことにしてしまう力を有していることを思い起こしましょう。
 
これは私自身の中から出てくるはずのないものです。ひとえにキリストから一方的に与えられるものであり、私のしたことへの報いなどではありません。本当に重要なことを何から区別しなければならないのか。それは、このキリストをすら評価しようとするような、人間の愚かな傲慢さではないのでしょうか。人とは何者であるかを痛感しなければなりません。


Takapan
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