生きるにも死ぬにも

チア・シード

フィリピ1:18-26   


牢獄の中でパウロは、ある意味で絶望していたと思います。ここで殺されることになるのだろう、と。確かにローマ法は優れており、現代と同等の考え方を多く含んでいたにせよ、現代とは違う法的運営がありましたでしょうから、個人的な意により命の行方が決められかねない状況があったかもしれません。明日という日が保証されるとは思えなかったのです。
 
そうでなくても、そもそもいつ死ぬか知れない環境です。牢にいるならばなおさらそうでしょう。パウロは覚悟をしていたと思われます。しかし、そう易々と死んでたまるかという気持ちも、人間ならあったかもしれません。パウロの心境をどのように推し量ってよいか、私たちには判然としません。
 
しかし、文面からすると、いっそ死んでキリストと共にいる方がよいと考えているものの、フィリピの人々のためには生きながらえてまた会うことができた方がよいと思い、また会いたいと願っているようです。普通はもちろんこちらが本音でしょう。だがパウロという人は決して普通ではありません。どう考えているか知れません。
 
きっと再びあなたがたのところへ行って会えることでしょう。キリストと共にある仲間として、会って喜ぼうではありませんか。肉において生き続けることで実りある働きができることを誇りたい。これが第一であってもおかしくないのです。が、パウロがモットーとしているのは、キリストが伝えられること、キリストを信じる人々が増えることでした。
 
さらに言えば、キリストがそれで栄光を受けることでした。たとえ利己心からキリストを告げ広めたのだとしても、その結果キリストが伝えられ崇める人が現れるのだったら、それはそれでうれしいというのです。生きることはキリスト、死ぬことは益。生きるならキリストが称えられ伝えられます。死ぬならはパウロがキリストと共にいられます。
 
板挟みに悩むパウロですが、心が二つに割れること、これは新約聖書の世界では大きな罪となります。二心、それは神と富とに仕えるようなものです。パウロはそこに抵触しているのでしょうか。自分の意志や願望の通りにならねばおかしい、と思う自己主張とは異なる、このパウロの懐は、私たちの中にもっと酷い迷いがないか、問い質されるような気がします。


Takapan
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