生きるにも死ぬにも
チア・シード
フィリピ1:12-20
生きるか死ぬか、という情況は、そうそうあるものではありません。パウロは今、そういう場面に立たされています。というより、置かれています。牢獄に囚われているということは、そういうことでした。生きられれば神の恵みであり、死ぬことになれば神の罰であり裁きであるのでしょうか。そう考えるのが一般的であるかもしれません。
しかしパウロはそれを超えていました。「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(1:29)のです。ここでパウロ自身のことが書かれていて、凡そのことは推測できますが、細かなことは分かりません。抽象的ですが、だからこそ私たちそれぞれの場合にも適用できる幅広さというものを備えている、とも言えます。
「私の身に起こったこと」が何であれ、誰にもそのようなことは起こっているし、起こり得るものです。もちろんここでは、投獄という事態です。でもそのことで、却って福音に触れる機会が多くの人にもたらされたと見ることもできます。仲間の信徒は、信仰心を揺さぶられ、福音を語らなければならない、と発奮させられたわけです。
パウロを妬んでいたキリストの弟子がいたところで、そのためにキリストのことが伝わってゆき、人々に知られるようになったとすれば、それさえも結構なことではないか、と考えるのです。見方ひとつで、表向きの困難や障害も、益と認められ得るのです。パウロを非難する仲間がいてもいい。それでキリストが伝えられるのならば。
伝えられれば、やがてキリストと出会う人が現れるかもしれません。救いが拡がり、神の国、つまり神の支配が及ぶことになるではありませんか。パウロの惨めさが却って、それによって「キリストが崇められる」ことになるのならば、万々歳だと考えられるではありませんか。たとえ「生きるにも死ぬにも」、そうであるはずです。
さて、それは過去のパウロだけのことなのでしょうか。考えてみれば、生きるか死ぬか、それは私たちの日常、私たちの今置かれている立場もまたそうではないのでしょうか。年齢を重ねた人は、日々それに向き合っています。忘れたふりをしても、つきまといます。生きているなら、キリストに従いたい。今すぐに死んでも、幸せだと思えるために。