傍観者への貴重な指摘
チア・シード
オバデヤ12-15
「兄弟が不幸に見舞われる日」「苦難の日」「その苦難の日」と畳みかける告知は、文脈上、エルサレムの災難の時を表していると言えるでしょう。主の日、終わりの日などと旧約の預言で言われ続けてきた、裁きの時のことです。その日は世界全体の終末を意味しているというよりも、ヤコブの兄エサウの名に由来するエドムがいまそれを傍観しています。
この傍観的な者、当事者ではない者として立つエドムは、傲慢だ。オバデヤはそう指摘します。「あなたはただ眺めていてはならない」「その不幸をただ眺めてはならない」と釘を刺すのは、自分とは関係がないと考えているからです。イスラエルの不幸は自らが招いたことだと高みの見物をしている、そこへいま神の言葉を浴びせます。
世間に、世界に、不幸な出来事が起こる。実に多くのニュースが、目の前を、電光掲示板に流れる文字のように通り過ぎてゆきます。ああ、戦争はなんとかならないか。ああ、子どもたちが可哀相だ。その画面を、お菓子でもつまみながら私たちは眺めています。同情心をもつことで、自分は情け深いと自己義認までしていることが多いでしょう。
でも、自分は安全なところにいます。時に政治や経済について、無責任な批判を世間に公表して、自分は何でも知っており、自分の考えが正しい、と独り豪語するような者もいます。「大口を叩いてはならないヶとの神の言葉をも馬鹿にするのです。せっかく災いを抜け出そうとする人に対して、立ち塞がるような加害行為さえするのです。
財宝に手を出すとか、生き残った者を引き渡すとか、そんなことはオレと全く関係がない、とほくそ笑むその態度こそが、加害行為であることに気づかないし、気づこうともしないのです。オバデヤは、そういう輩に激しい裁きの怒りが降りることを指摘します。ただイスラエルの背反を責めているのではありません。これは貴重な預言です。