今に生きるオバデヤの警告

チア・シード

オバデヤ12-15   


主を拝し、仕える僕。オバデヤという名前にこめられた意味は、そのようなものであるそうです。ただ、これが個人名であるのか、それとも何か象徴的な意図があるのか、はっきりしません。イスラエルの預言者集団を代表する名を考案した可能性もないとはいえません。最も短い預言書です。章にすら分かれていません。
 
捕囚の後、死海の南東に位置する国、エドムが滅びます。この事態を裁きと称するのは簡単ですが、アモス書にてすでに、エドムには残された者がいると言われていました。オバデヤはこれを受け継ぐかのようにエドムの歴史に触れ、ヤコブに象徴されるイスラエルがこの地に回復していくのだと宣言します。
 
ユダの荒廃を目の当たりにして他人事として軽視していたエドムが、同じ運命を辿ったことになります。それはまるで、私たち異邦人がイスラエルの出来事をどこか他人事のように眺めている様子と重なってくるようではありませんか。他人の不幸を眺めているだけであってはなりません。それを喜んでいてはいけません。苦しみを傍観してはいけません。
 
他人の不幸ですら、私たちはそこから自分の利益に結びつけて考えてしまいがちなのです。自分の損か得かを気にするのです。政治というのはそれをうまくやる技術かもしれません。この機に乗じて、不幸な人を痛めつける側に回るのが、私たちの世の常です。待ち伏せしてダメージを与えるのも、政治的な手法でしょうか。
 
オバデヤは、イスラエルの不幸が世の終わりなのではないことをはっきりと告げます。これから、まだきます。主の日と称する終わりの日は、こんなものではありません。今イスラエルの不義と不幸を、高みに立って見物している者が、それ以上の報いをもたらされることになるものと知れ。オバデヤは、傍観者になりがちな人間に挑戦する言葉をぶつけます。
 
恐らくエドムは、バビロンの手先となってエルサレム神殿を焼く先鋒に立っていたと言われます。単に眺めていたとするオバデヤの言い方は、まだ緩やかなのです。行ったことが我が身に返るというなにげない宣言は、もし自らに思い当たる事実があるのなら、猛烈な力となって効いてくるのではないでしょうか。
 
このことは、もっと私たちは我が身に引きつけて考えなければなりません。私は、オバデヤ、つまり主を拝し仕える僕であると言えるでしょうか。神殿を焼き払うようなことを、実のところしてしまっていることはないでしょうか。まさかそんなことを? いや、私が人や教会に対して、神に対してしていることに判断を下すのは私でなく、神なのです。


Takapan
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