人を護り導く神の雲

チア・シード

民数記9:15-23   


「昼は雲の柱、夜は火の柱」(出エジプト13:22)が、イスラエルの旅を導いたといいます。このことは、私が感じた印象以上に、旧約聖書のあちこちで登場する重要アイテムです。しかし、これに真正面から立ち向かう研究や説教は、あまり聞かれません。荒れ野の何十万という民を約束の地に着くまで支えたこれらの要素は、何だったのでしょうか。
 
謎解きのためではなく、私たちの指針として見つめてみたいと思います。ここでは、幕屋を覆う昼の雲が描かれています。雲が、そこを覆い留まっている間、民はその地でキャンプを保ったのです。雲がそこから昇れば、進み動きます。この関係を繰り返して告げています。私たちへ、よく言い聞かせるように、繰り返します。
 
これを記者は「主の命(めい)」と同一視しています。雲の昇降は、主の命令なのです。そして幕屋への務めも常に守って、留まっていました。イスラ絵の民の信仰生活は、このような形で行われたそうです。このテクストでは、雲の動きと人の動きとが関係づけられていますが、この雲は「夕方になると幕屋を包む火のように見え、朝まで続いた」そうです。
 
さらにこの雲は、「夜は火のように見えた」と念を押されていますが、これを見る限り、「火の柱」なる表現は、雲とは別のものではなく、雲そのものの描写だったように理解されます。夜、火のように明かりが灯されたというのは、敵からすれば恰好の目印です。危険かもしれませんが、逆に敵が見えるということであるかもしれません。
 
むしろ、闇の中に光があった、と解釈すべきでしょう。私たちの過去は闇でした。神なしの人生は、闇でした。信仰してからは光が与えられましたが、それでもふとしたことで闇が襲ってくることがあるかもしれません。イスラエルには闇の夜にも光があり、暖かな火が消えなかったように、私たちと共にいる主は、光と温もりを与え続けているのです。
 
また、雲もただの水滴であったとは思えません。幕屋たるもの、キャンプ地での神殿です。移動性エルサレムです。主の霊がじっとそこにいて、民を見つめ、また護っているのです。「神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:2)ことを思うと、水蒸気である雲は霊なる神を示し、人が神の霊により行動を定めるべきだ、と気づかされます。


Takapan
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