アロンとは誰か

チア・シード

民数記6:22-27   


律法規定の合間に、祝祷規定が入ってきます。キリスト教会では、この祝祷を礼拝の終わりの祝福の祈りとして現代に繰り返してきました。この祝福の言葉は、主がモーセに与えたものです。それから、モーセがアロンに、これをせよと伝えたのです。そうして、そのアロンが、イスラエルの人々にこの祝福の言葉を届けるということになるのでした。
 
そもそもあらゆる律法がこのような形で民へ告げられていたことになっています。主はモーセを選び、神の言葉を授けることとしましたが、モーセは自分は口べただと弁明し一旦はその使命を断っています。ならば、と主は兄アロンを指名し、雄弁なその語り口を以てモーセに神が告げた言葉を、アロンによって民に伝えるべく配慮しました。
 
モーセは、増えすぎたヘブル人の子を殺せというエジプト王の命令をかいくぐるようにして生き残った子でした。兄アロンと姉ミリアムは殺されるターゲットではなかったということなのでしょうか。モーセは幸運にも、そしてまさに選ばれた者として、なぜかエジプト王室の一角で育てられますが、殺人容疑でミデヤンへ逃れざるをえなくなりました。
 
その後再び王の前へ現れるまでに主と出会い、その時にアロンがいるではないかと再会しているわけですが、細かな経緯は決して分かりやすいものではありません。アロンはモーセを援助する役割を果たしますが、他方金の子牛事件を起こし、言い逃れまでしています。一筋縄でいかない人物であり、どこか人々とも交わらない立場から眺めているようにも見えます。
 
アロンの立場は、なんとも微妙なものだという気がします。主からモーセ、モーセからアロン、アロンから民へという渡し方の構造は、まだまだ考えてみる余地がありそうです。この過程を通じて、主の名がイスラエルの人々の上にもたらされ、置かれることとなりました。そして主の名と言葉が、民族の祝福となっていくのです。
 
この祝福が数千年の時を超えていまなお届き、たとえば聖餐として私たちにつながっていると見ることもできようかと思います。私たちにつながっているのです。その秘技やら祝祷やらが、主の名が人々に置かれているところから始まり、私たちはそれを受けて、感謝を以て示す交わりをなしているということになります。長い歴史を覚えます。


Takapan
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