まるで罠

チア・シード

民数記20:6-13   


メリバの水と呼ばれることになった事件です。場所はツィンの荒野のカデシュと書かれています。モーセの姉ミリアムが死にますが、喪はないようです。むしろ水に関して会衆の不満が大きくなり、それどころではありませんし、女だからという背景があるかもしれません。水の不足は、命に関わる尤もな不満ではありました。
 
そこでモーセとアロンは会見の幕屋で主の前にひれ伏します。会衆は同席できません。いわば奥まったところで祈っているようなものです。主は栄光の中からモーセに告げます。アロンは広報ですが主が語りかけるのはあくまでもモーセです。会衆の目の前で、岩に向かい水を出せと命じよ。すでに出エジプト記17章でも同様なことがありました。
 
シンの荒野からレフィディムの宿営で、水がない事態に遭遇しています。この時は岩を打って水を出して解決しています。マサとメリバと名づけていたのですが、このメリバとは「争い」のことだそうですが、似た事件であることは間違いありません。けれどもいま出された主からの指示は、まるで罠でした。岩を「打て」とは今回言っていなかったのです。
 
しかしかつてと同じように、「杖を取れ」とは言っています。杖を取ることと打つこととがつながった経験をしたモーセは、今回も杖を取るように言われると、神の言葉を分かった気になり、「打て」とは言われていないのに打ってしまった、というところでしょうか。自分で神の言葉を決めつけることは私たちにも多々ありますから戒めと感じます。
 
しかもモーセは、二度も岩を打ちました。自分の感情に任せてなのでしょうか。ただ、水はちゃんと出ています。民は命を長らえました。湧き出たと書かれるほど、ふんだんに恵みが与えられたのです。なにもかも十分よくしてもらえたような場面で、助かった出来事であったはずなのに、主は信じることをしなかったモーセに厳しい罰を与えます。
 
信仰とはなんと厳しいものでしょうか。主を聖とはしなかった。何の説明もありません。結果だけが突きつけられ、そこから解釈するよりほかありません。私たちは、口で言えという主の命令に対して、岩を打ったというあたりにしか、心当たりがありません。そのほかの欠点については気づきません。それが信頼を欠く重罪であるとされるのです。
 
主が与える土地にはもう入れません。既に「与えた」ようにも読めます。二人はここまで導いてきながら、約束の地に足を踏み入れることが許されません。残酷な予告です。この後どんな思いで旅を導くのでしょう。主は自分が聖なる者であることを示したといいますが、分離されたこの「聖」とは何のことなのか、私たちにも重く突きつけられる思いがします。


Takapan
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