食糧問題

チア・シード

民数記11:21-23   


民の不平なのか、民の疑問なのか、それは読み方次第であるかもしれません。確かに文脈からすると不平ですし、呟きです。神もまた、民の悪しき思いとしてこれを振り返ることとなります。けれども、60万を超える人々の移動では、不安は当然あるはずです。荒野にその居場所が確保できたとしても、水と食糧はいったいどうなるのでしょうか。
 
生きるための資源です。正に死活問題です。もちろん、衛生や福利など、社会と生命をつなぐ措置も必要でしょうが、食うものをどうするかという問題は、いくら宝石を積んでも解決できません。60万人というのが男だけなのかどうかは知りませんが、それだけで大都市の人口がいるわけです。その食糧確保は只事ではありません。
 
5000人の給食をイエスが備えたとしても、その百倍以上の人数がいるというのです。どうしてエジプトを出て来てしまったのか、と嘆くのは尤もではないでしょうか。モーセは、その不平の、あるいは攻撃か嘆きかの矢面に立ちます。そこで主に向かって問うことになります。どうしてあなたは、と主に向かって疑問をぶつけるのです。
 
それは、不信の故とは言えないように思います。信頼するからこそ、問うのです。モーセの問いは、主によって「不平」だとカウントされることはありませんでした。ただ尋ねました。肉を与えよう、などというのはどういうことなのか、全く理解できないのですが、と訴えるのです。しかし、確かにそれはモーセの無理解ではありました。
 
不平とみられても仕方がないわけですが、主はモーセを断罪はしません。ただ、思い知らせます。「主の手は短いだろうか」と問い、神の言葉は必ず実現することを明らかにします。「今、あなたは見るだろう」の言葉も、やがて実現することになります。実はこの直後、興味深いことが起こるのですが、それはまた別の機会に味わいましょう。


Takapan
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