出発と到着の度に祈る

チア・シード

民数記10:33-36   


宿営から発つイスラエルの民をまず描きます。三日の道のりを進んだそうですが、その区切りが何を指すかは知りません。ここの次の記事で、民の不平が激しく出ていますから、この不満が三日後だったのだ、となら読むことができます。三日坊主ならぬ、三日従順ということでしょうか。あるいは三日間だけ抑制されていたということでしょうか。
 
主の山から三日の道のりを往きます。その姿にいま注目します。主の契約の箱が、60万ともいう民の先を進みます。そして民の休む場所がないかと探しています。この民はまだ覚りませんが、40年という年月がこれから待っています。ちびりちびりと進んでは休み、微々たる歩みを繰り返すことになります。誰がその運命を知るでしょう。
 
三日という日数は、まるでキリストの復活へのカウントのようですが、そんな読み込み方をすることはこじつけとなるでしょう。ともかく大行列です。収拾が付かないほどの集団です。先に行くのが契約の板の入った箱。この「箱」が主語で、民の休む場所を「探した」という述語につながります。主の箱が安息を探してくれていたのです。
 
じわじわ進む旅をする昼間、主の雲が民の上にありました。主はその民を確かに導いてくださいます。雲は主の臨在を表すと見られていたようです。出発のときには、モーセが祈ります。主よ、立ち上がってください。車を運転するにあたりまず祈る牧師がいました。出発にあたり祈るという姿勢を忘れたくはないものだと教えられます。
 
モーセは、敵を散らす主の力を求めて祈りました。これから出発するにあたり相応しい内容だと言えましょう。あらゆる危険を、人は避けることができないのです。当時にここには、留まる時のモーセの祈りも掲載されています。主よ、帰って来てください。このイスラエルのために、と。ずっと雲があったのに、帰るというのは違和感を覚えます。
 
主がずっと共にいたことを確信していたはずだからです。しかし、安らかな夜を与えたまえとの願いは、一同を率いるリーダーの本心であるように思います。60万のはずのイスラエルの民がこの祈りの中で「幾千幾万の民」とスケールダウンしているのは、もしかすると史実に近いのでしょうか。ともかく、歩むも止まるも祈りの中にありたいものです。


Takapan
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