主を礼拝するとは

チア・シード

ネヘミヤ8:4-8   


イスラエルの民自らが、律法を読み聞かせてくれ、と祭司エズラに願ったようです。人々のほうが、律法を求めたという構図です。その朗読に、夜明けから正午まで、民は耳を傾け続けました。神の律法はこうして明らかにされ、意味も示されたので、人々はちゃんと理解したのだといいます。そう、誰もが理解できるものであり、理解したがったのです。
 
エズラは、ここでは書記官としても振舞っています。木の壇の上に立っています。その後の歴史の中でも、指導者はしばしば台の上の高いところから人々に演説しています。高らかに宣言をしたり、呼びかけたりします。皆の目が一つのところへ集まります。神からのメッセージを預かるということは、要するにそういうことなのです。
 
けれども、エズラという人間一人が神のように語るのではありません。周りにいた13人の名がここに記されています。確かな証人です。完全数の12人でないところが意外ですが、傍らにはそれを支える仲間がいます。律法は、共同で責任をもつことによって掲げられるものなのです。全員の目撃する中で、エズラは巻物を開いています。
 
だから全員が、この出来事の証人となります。全員が起立し、リスペクトの態度を示します。全身を耳にして、律法の書の朗読に聞き入るのです。エズラがすべてを読み上げるというのではありません。エズラの傍らにいた13人とはまた異なる13人の名が並べられます。レビ人だそうです。律法を読み上げたのは助手のようなレビ人だったのです。
 
するとエズラは、開会宣言をしたようなものです。エズラは大いなる神を称えます。民は皆、手を挙げます。両手を高く挙げ、「アーメン」と叫びます。その声は、今もキリスト教会に響いているでしょうか。立っていた民は跪き、値に顔を伏せて主を礼拝しました。そしてまた立ち、律法を聞くのです。今もキリスト教会に、それがあるでしょうか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります