絶望あるところに希望をもたらすために

チア・シード

マタイ9:35-38   


病気や患いを癒した一方で、群衆を深く憐れんだイエス。直接イエスに治癒されたというその人々の幸いを思いますが、ついていく主人もなく、打ちひしがれている人々を、苦しい思いで見つめていたというのは確かです。有名な、断腸の思いに匹敵するギリシア語が用いられており、イエスの並々ならぬ感情の高まりを表現している箇所です。
 
イエスは弟子たちをこの後に各地に派遣します。そして旅で注意すべきことを教えますが、その前提として、働き手が少ないという事情がありました。これは、教会共同体の、イエスより後の時代の様子を反映させている記事の可能性があります。しかしイエス自身がそう言っていたという記憶や資料が重なっているようにも考えられます。
 
人々は弱り果て、打ちひしがれていました。牧者がいない羊にそれを喩えると、イエスはそこに断腸の辛さを感じました。イエスはやがて、死と復活により、これらの人々の救いを道拓き、命を与える、ある意味で暴挙とも言えることをします。そうして自ら彼らの牧者、つまり主人となるのです。命を棄てて、命を与える、それはまだ少し先のことでした。
 
ただ、弟子たちに、働き手を増すよう願え、と言いながらも、この十二人の他の弟子をつくれと言っている訳ですから、まさに十二人に伝道の心得を教えていくようになります。当時のその現場に向けての声と、聖書の読者、いまの私たちへ向けてのメッセージを綯い交ぜにしながら、ストーリーは展開しているようにも見受けられます。
 
十二弟子の働きをここに見ると同時に、私たちがそこに招かれていることも、決して忘れてはなりません。また、私たち自身が打ちひしがれている、という認識も新たにすべきでしょう。新型コロナウイルスの力は、人々を分断し、距離を遠ざけ、人間の無力さを震撼させました。疲弊をもたらし、絶望を振り蒔くき続けました。
 
しかし、イエスはありとあらゆる病気や患いを癒したとあるではありませんか。御国の福音を宣べ伝えることと、これがセットになっているではありませんか。教会が慌てふためき、自らの存続に拘泥しているばかりでよいのでしょうか。町や村を残らず回れと言われているのではないでしょうか。手紙もインターネットも、あるではないですか。


Takapan
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