狭き門という言葉と教会
チア・シード
マタイ7:13-14
受験期のマスコミ報道の決まり文句「狭き門」という言葉が、気のせいか、最近あまり耳に入ってこなくなりました。そういうニュース自体を見聞きしていないせいかもしれません。もしかすると、その語の使い方が間違っているということが、世の中に知られるようになったのだとしたら、喜ばしいことです。浄土真宗の「他力本願」のように。
競争率が高く合格者が少ないことを示すように、よく使われていました。一見、意味が合っているような気がするかもしれませんが、受験生が殺到している姿は、全く聖書の意味とは異なります。聖書の使われ方は、殆どの人はその門が見つけられない、人に気づかれない、ということで、「見いだす者が少ない」という門のことをいうのです。
日本人に、いつから受験のこととしてこの語が使われ始めたのか、私は知りません。百年ほど前に、ジイドの翻訳『狭き門』が発行された時期からなのか、と推測するくらいです。小説の題としては、カトリック信仰の強い潔癖さを表したものでしたが、小説を味わうでなく、タイトルだけが浮遊して勝手なイメージがはびこったのではないか、とも思えます。
イエスの山上の説教が教えているのは、「滅びに至る門」との対比です。それは「大きく、その道も広い」といいます。「そこから入る者は多い」のです。人々が皆目指します。目立つ門であり、通りやすい門です。このとき、一人ひとりがそれを選ぶというよりも、私には、みんなが行くから、という心理がそこに向かわせるような気がしてなりません。
多くの人と同じことをしていれば安心。周りの「みんな」と違うことをしなければ、独り責任を負わずに済む。民主主義にとっては、それが正義となります。自分一人だけではないのだ、という安心感、安楽感がそこにあるかもしれません。しかし、イエスの言うことはそれとは違います。「命に通じる門は狭く、その道も細い」のです。
「そして、それを見いだす者は少ない」と付け加えます。さらに私は、たとえ見いだしたとしても、殆ど誰もそこへ入ろうとはしないのだと思います。教会がいまその門になっていて、中の自分たちは優れていると思うクリスチャンがいるかもしれません。だから教会に人が来ないのだ、と。でも教会は広く知られています。だのに殆ど誰も来ないのです。