狭き門

チア・シード

マタイ7:13-14   


アンドレ・ジイドなどもう若い人は読まないでしょうか。『狭き門』のような自己犠牲はもう流行らないかもしれません。しかしこの「狭き門」という言葉は、毎年受験シーズンになると、ニュースで安易に多用され続けています。抗議をしたらよいのにと思います。「他力本願」の間違った使用は、浄土真宗の抗議により確かに減っているのですから。
 
門ということで私たちは、武家屋敷を想像するかもしれません。西洋の古城の門も思うでしょうか。どちらも門番がいて、ぴっちりと普段は閉じられています。閂で堅く塞がれ、容易に敵の侵入を拒む構造となっています。日常開いていて、たとえ閉めても簡単に乗りこえられるような民家の門とは訳が違います。
 
こう考えると、「入門」という言葉にも、私たちは躊躇しなければなりません。入門というのは、お手軽なお試しなどではなく、分厚い仕切の向こう側へ足を踏み入れることにほかなりません。容易ならぬ資格が要求されたり、決死の覚悟で踏み込んだりする営みであるはずです。入れてもらえるためにはよほどの信頼を得ないといけないし、入ったが最後重要な客人としての使命を果たさなければなりません。
 
エルサレムの門は、そこから敵が侵入したらもう町は壊滅してしまうという関門でありました。広く開かれた門という常態があったとは考えられません。尤も、通常昼間は開いていて商人が出入りするというようなことは当然あった訳ですが、ひとたび戦いとなると城門が閉じられ、高い城壁で守られた砦として守りに入り、また壁から敵を攻撃もします。
 
このような門が、なおかつ狭いのだとイエスは言いました。事実、通例人が気づかないような小さな門があったのかもしれません。また大きな門の横に、それを閉めたときにもこっそり出入り可能な小さな門があったとも考えられます。それが、らくだが通れない「針の穴」であるのかもしれません。
 
人々は、大きな門が開いていればわざわざ狭い小さな穴を通ろうとは思いません。わざわざあの小さな狭いところを通ろうとはしない門です。しかしキリストの弟子たる者は、その入口から、決死の覚悟で入れ、その門を叩けというのです。「狭い門」というわずかな言葉に、これほどの思い巡らす背景があることを今日私たちは教えられます。
 
この門から続く道は、命に通じるといいます。決して多くの人がこぞって目指す道ではありません。「狭き門」は皆が押し寄せるから狭いのではなく、もともと誰もが気づかない、あるいは注目しないような、人気のない門なのです。わたしは道であり真理であり命であると言ったイエスの言葉を重ね合わせ、私たちはイエスこそ門だと知ります。自分の命を捨てて、羊を守る羊飼いのいる、あるいは羊飼いそのものである、門であるのだと。


Takapan
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