マタイの狭い門

チア・シード

マタイ7:13-14   


受験シーズンになると、ニュース報道の定番として「狭き門」という語が登場します。キリスト教界も、浄土真宗が「他力本願」の誤用についてアピールして公的には使わせないようにしてきたように、「狭き門」の語の誤用をなくすように運動すべきではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。
 
いわゆる山上の説教の末尾近くにマタイはこれを配しました。求め続けよと促した上で、この狭い門の教えです。マタイは、叩く門とはこれである、と言っているはずです。叩き続ける者には開かれるであろう門ですが、ルカの場合は、違う理解を示しているように見えます。執拗に聖霊を願いなさいというように、求めることを教えた上で、多くの街や村の人々を見てある人が少ない者しか救われないのかと案じた呟きに対して、イエスが、入れる戸口は狭いのだと答えているのです。
 
もしかすると、イエスの語録そのものは伝わり方が素朴過ぎて、マタイとルカの解釈がそれを膨らませて別様に描かれたのかもしれません。編集により、同じ素材がかなり違った印象を与えることとなっています。
 
これはエルサレムにある実在の門をモデルにしているのでは、という研究者がいますが、ひとつの喩えとして、聞く者にそれと分かるような題材が用いられているものと思われます。あの門のようなものだと想像してごらん、というわけです。狭い門は探す必要があります。そして見出せば、ここぞと叩き開いてもらおうとするでしょう。
 
邦訳には後半に「しかし」とありますが、原文にはこの語はとくに見られません。日本語として、「しかし」があったほうが歯切れがよいことは分かりますが、特定の解釈を押しつけてしまうことになりはしないでしょうか。もっとダイナミックに、「狭いぞ、門は。細いぞ、道は。これは命の道へと導く」のような息吹を伝えるのは、翻訳とは言えないのでしょうね。
 
岩波訳はわざわざ注釈を付けて、大学入試のような場面で誤って使われる日本での用法に苦言を呈しています。情けないと言えば情けないものです。ルカが聖霊を見つめるのに対して、マタイは命に注目しています。ヨハネであればよく分かるのですが、マタイが命です。マタイにとり命はどのようなものとして位置づけられていたのでしょうか。これも一考に値するのではないかと思います。


Takapan
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