主の祈り

チア・シード

マタイ6:9-13   


だから、こう祈りなさい。祈るときには偽善的であってはならず、言葉数が多くあればよいという考えに同調するなと釘を刺したところで、「だから」なのでしょうか。ここには父なる神の真実なる姿が描かれています。隠れたことを見ているのだし、私たちに必要なものを知っています。「だから」なのでしょうか。
 
否定的側面と肯定的側面のどちらを受けていくかによって、私たちの態度も変わってくることでしょう。それにしても、気づかねばならないことがあります。そもそも祈りとは何か、これ問うことなしに祈ることが当然であるとしているように見えますが、これはどう捉えればよいでしょうか。信仰生活を続けていても祈るとは何か、説明ができないのに。
 
父よ、と呼びかけ父なる神に向き合い、その栄光を称えるところから始まり、次第に視点が祈る者自身へと移っていきます。伝統的に「主の祈り」と呼ばれているものは、このマタイの本文の末尾に、再び神を称える句が付加されています。これを、聖書本文のオリジナルにないから落とすべし、と無視するのも味気ないような気がします。
 
ユダヤの祈りの定式からすればこのように締めたほうがよい、という声もあるようです。そのとき、祈りの中央には、よく「日ごとの糧」と呼ばれるものがありますが、これは謎の語です。主の祈りの箇所のほかには類を見ない語であって、どう訳してよいか分からないのだそうです。「必要な糧」と新共同訳は訳していました。
 
聖書協会共同訳では欄外の注にこれをまわし、「明日のための糧」などの考えを示しています。「来る日の糧」といった工夫も見られますが、どうも確信がないというのが実情のようです。フランシスコ会訳は、ルカとマタイとでこの同じ語を訳し分けていますが、この自信のなさは、日本語訳を頼りに読む者にとっては迷惑な話です。
 
これは「今日の糧」のことだと理解する人も多くいます。貧しさに喘ぐ人々にとっては、明日といわず今日の食べ物を求めることで必死なのであり、神に頼り祈るというのは、まさに今食べ物に事欠いているからだというのです。永遠の命を求める人が聖書によく登場しますが、明日と言わず、今与えてほしいと思います。いえ、与えられていると信じます。


Takapan
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