偽善者について

チア・シード

マタイ6:1-4   


偽善者たち。平気でイエスはそう呼びますが、果たしてそのような人々がいるのでしょうか。述語としてでなく、主語としての、偽善者。誰それは偽善者だ、というのではなくて、偽善者はこうする、と言明できるような偽善者が。たとえば語源的には、俳優がそれだったと思われます。演技しているのです。善悪云々を別にして、誰かを演じている者のことです。
 
演じていることが、善人であるとなると、私たちの言葉でいう「偽善者」ということになります。これがまかり通っている社会は歪んでいます。イエスはそれを指摘した。でも、世の中というのは大抵そういうものであって、よい子ぶっていたとしても、それがそのまま極悪であるかのように言われたくはないものです。人間誰でもそうではないか、と。
 
イエスはもちろん、そんな場面でこの語を使っているのではないはずです。神に対してどう生きるのか、という根底的な問いが人間にはあって、然るべき場面で人々にどう見られるかを目的としながら、神との関係を演じているということが如何に空しいか、間違っているのか、を徹底的に分からせようとしたのではないでしょうか。自分では気づきにくいので。
 
あるいはそういうポーズを意図的にとることによって、社会的な地位を高めようなどという思惑があるかもしれません。内心の汚さを感じますが、考えてみればそれは私たちが社会生活を営む上での常識であるとも言えます。私たちは多かれ少なかれ、善いことをすれば報いがあること、金や名誉を受けることにつながると計算しているものです。
 
そう、聖人になれ、と言っているのではない、としましょう。問題はたとえば、そうして得た自分の地位を権威として自負することで、そうでない人々を見下し、律法を守れない、あるいは律法のことをよく知らないという人々を、神の名に基づくグループから排除していく横暴さを視野に入れて指摘しているのかもしれません。
 
たった一つの言葉に深い思いを吹き込み、言葉の背後に大きな世界を膨らませておく、それが聖書の懐の広さではないでしょうか。少しばかりひらめいたからと言って、自分の思いつきが正しくてそれに反対する者は馬鹿だ、などと思う人がいたら、愚かさの極致でありましょう。それは現実に、幾らでもいることが、ネット社会を見れば分かります。
 
偽善者。それは自分にとっては偽っているなどという意識を持たない者をいいます。当人は自らの善を、正に善きものとして誇っているわけで、これで「よい」と満足しているのですが、そこに問題があるのです。ギリシアのソフィストは、自分の知恵こそ真の知恵だと考えていたはす。偽善者も自らそれで「よい」と思う、そういう者だったことでしょう。
 
自分が「よい」と思うから、神もまた「よい」と認めるはずだ、そんな思い込みが背後にあります。自分の判断を神が認めてそれに従うのだ、としているのです。つまりは神を私に従属させています。ここでは施しを実例としてこの本質を暴露します。施しは人々に褒められるために自分が「よい」と賛同できるからこそする、そちらが原理になっています。
 
神を私の意志の実現のための道具にする。恐ろしいことですが、人間はそれを無意識のうちにやってしまいがちです。それでも、施しの行為自体は、現に誰かの役に立っているとも言えます。この私には施すような財もないとなると、私が彼らを非難するというのも、何か違っているような気がします。人間が誰かを偽善者呼ばわりするものではないのです。


Takapan
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