牧師の職務

チア・シード

マタイ6:16-18   


断食についても、偽善者が戒められます。演じているという点では、断食の演技は見物かもしれません。やつれ、こんなにも身を犠牲にしたのだと宣伝できます。人にそれを見せて褒めてもらわなければ意味がありません。人の目に認められるようにやるとなると、それにより自分の評価が上がるという目的を隠しているということになります。
 
私は密かに危惧しています。牧師や伝道者などの中に、この罠に陥っているということがあるのではないか、と。他の職業でも「先生」と呼ばれる立場は揶揄されることもありますが、自惚れてしまう危険があります。牧師も、最初はまだ十分な信頼を得ていないのでまだ謙虚であったとしても、一旦信用され年齢と共に地位が与えられてゆくと、どうでしょう。
 
「先生」という声が当たり前のようになってきませんか。最初の頃は「仕える職務」だと理解していても、いつしかそれが忘れられて、すっかり仕えられることを当然としてしまわないか、正に偽善者になってしまうということがないか、案ずるのです。仕事にも慣れ、ルーチンワークが分かってくると、仕事に対する姿勢が私たちも変わってきます。
 
どこで手を抜くことができるか、どこをやっておけば労苦しているように見えるか、だんだん心得てくるからです。牧師職にも、それは同様に襲ってきます。あるいは、そういうところを狙ってくるのがサタンだ、と説明すると分かりやすいでしょうか。一見うまくいっているからこそ、本人が気づかない間にすっかりサタンの手下にしてしまう罠があるのです。
 
施しもそうでした。隠れたところにおられる神が、隠れたことを見ているとイエスは気づかせます。この確信が必要です。自分はこんなにも我が身を犠牲にしてこのことをやっているんだと触れまわり、人に褒められようと考えているようなせこい者を、イエスは見破っています。世の光として光は隠されることがないのですが、労苦を見せたがると偽善となります。
 
どうやら私たちは、このバランスを知るのが難しいらしい。自分が神の光を受けてそれで世を照らしているという事態は、どうやら私たちは自分で気づくことがないものであるようです。いま照らしているぞ、と思った瞬間、魂を抜かれます。秘められたもの、隠されたものは、時が来れば後から明らかになればよいのです。そういうものなのです。


Takapan
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