ただ自己宣伝を戒めるだけじゃない

チア・シード

マタイ6:1-4   


施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。有名な句です。自分は義しいことをしていると人に知らせるような真似をするな、という意味で理解して差し支えはありません。施しを代表例としてこのことを例示していますが、凡そ善行を人に見せびらかせるために行うなら、自分目的でしかないだろう、との厳しい突きつけでもあります。
 
そもそも施しという行為に、見せかけの要素が当時あったと言われています。施される側、つまり社会的に差別され働けないような病気や障碍を抱えた人は、憐れみを乞うことでなんとか生活していけたようです。それをピンハネする輩もいたことでしょうし、友情からその人を然るべき街の箇所まで運ぶという人もいたように福音書の記事からはうかがえます。
 
このような人に施しがあると、大袈裟にそれを見せつけ、また施された側も大声で、あなたに神の祝福がありますように、と礼を言うのが常態であったと言われています。お決まりの流れで、どちらも喜ぶという仕掛けです。イエスは、しかしそうじゃないと言います。神の業と思いは、こうした姿で顕されているものとは全く違うのだ、と言うのです。
 
人間の世界でのこうしたやりとりは、人間同士の中では一つのお約束であったかもしれませんが、神と人との関係には無縁です。人の世のお決まりは演技だと言います。偽善者という言葉は、道徳的な意味にしか私たちには聞こえませんが、元来俳優を意味する語でした。ギリシア文化では舞台で仮面をつけて演ずるものだったからです。
 
施しが、演目となってしまっています。神の恵みすら舞台で上演されるものになってしまい、観客がそれを傍観するという図式になっています。私たちは観客でよいのでしょうか。傍観者ではないはずです。右の手のすることを左の手に知らせるな。これは印象的なフレーズですが、こうした背景を踏まえて理解したいと思います。
 
自分の義しさを他人に知らせるな。知らせようと考えるな。自分が義しいということを自分で決めている点が決定的に拙いものです。私は義しい、と私が思い、決めている。これがいけないのです。決めるのは神であるはず。隠れたことを見ている父なる神という設定は、私自身が私のすることを隠しているということにほかなりません。
 
私の行為の意味は、私の心に対してすら隠されています。つまり、イノセントばりに気づいていないということが必要なのです。せめて、自己評価をしないということでもよいでしょう。僕として、なすべきことを淡々と為す。イエスはそのように教えたことがありましたが、その方針とこの戒めとは、同じ一つのことのように聞こえてこないでしょうか。


Takapan
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